はじめに-順徳天皇とはどんな人物だったのか
順徳天皇は、後鳥羽上皇の第3皇子であり、第84代天皇となった人物です。「承久の乱」に敗れて佐渡に流されたことから「佐渡院」とも称されます。また、和歌に秀で、歌集や歌学書などを自ら編纂しました。
目次
はじめに-順徳天皇とはどんな人物だったのか
順徳天皇が生きた時代
順徳天皇の足跡と主な出来事
まとめ
順徳天皇が生きた時代
順徳天皇は父である後鳥羽上皇の院政下に生まれ、その下で天皇として在位しました。その頃は、幕府と朝廷の円滑な関係が崩れていく時期でもあります。執権・北条氏が後鳥羽上皇による幕府への介入を警戒したことで、両者が対立していったのでした。その中で天皇となった順徳天皇の生涯は、必然的に両者の対立に巻き込まれていきます。
順徳天皇の足跡と主な出来事
順徳天皇は、建久8年(1197)に生まれ、仁治3年(1242)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
後鳥羽上皇の子として生まれる
順徳天皇は、建久8年(1197)後鳥羽天皇の第3皇子として生まれました。名は守成(もりなり)、のち佐渡院とも称しました。母は高倉範季(のりすえ)の娘・重子、のちの修明門院(しゅめいもんいん)、乳母は又従兄弟の藤原憲子でした。
院政下で若くして天皇となる
幼いころから利発であったうえに母親が後鳥羽上皇からの殊寵を得ていたため、彼は正治元年(1199)12月には親王となり、翌2年4月には、4歳にして皇太弟に立てられました。その後、承元4年(1210)11月25日、後鳥羽上皇の命によって土御門天皇から位を譲られ、わずか14歳で第84代天皇となったのでした。
翌年には、九条良経(よしつね)の娘・藤原立子(りっし)が中宮に立てられました(のちの東一条院)。中宮との間には懐成(かねなり、のちの仲恭天皇)と諦子(ていし)が産まれています。またこの他、内大臣・藤原信清の娘・位子(いし)との間には穠子(じょうし)、従三位・藤原清季の娘との間には忠成(ただなり)ら、三人の皇子女が生まれました。
順徳天皇の在位は10年に及びましたが、後鳥羽上皇の院政下であったため、みるべき治績をあげることはできませんでした。
学問を好む、優れた歌人
政務にあずからない順徳天皇は、有職故実(朝廷や公家の礼式・官職・法令・年中行事・軍陣などの先例・典故)の研究や、歌論・詩歌・管絃の奥儀の修得に傾倒したとされます。承久3年(1221)頃までには、宮中の行事・故実・制度などを漢文で解説した『禁秘抄(きんぴしょう)』を著しました。これには、鎌倉幕府に対抗して皇威を盛んにするためにも、宮廷の行事・儀式・政務などの実際を明確にするという目的があったとされます。
和歌への精進は、父の強い影響に発したとされ、早くから藤原定家や藤原家隆らとともに歌合に参加し、歌才を磨きました。その歌風には平淡かつ典雅な趣があったとされ、歌集『順徳院御集』・『順徳院御百首』・『内裏名所百首』が今に伝えられています。また、歌論の方では、藤原俊成・定家・鴨長明らの後を承け、当代の歌論を大成した『八雲御抄(やくもみしょう)』を著しました。
【「承久の乱」により佐渡へ配流。次ページに続きます】