長引くコロナ禍において、以前よりも人とのつながりが感じられず、ひとりでいることの孤独感を感じている方、漠然とした不安に苦しみ、平穏な心を取り戻したいと思っている方が増えているのではないでしょうか?
そこで、チャンネル登録者数42万人の大人気YouTube人生相談『大愚和尚の一問一答』で、人々の不安の声に答えている大愚元勝さんの著書『ひとりの「さみしさ」とうまくやる本』から、孤独との付き合い方についてご紹介します。
文/大愚元勝
人とうまく交流するためのコツ
集団生活が苦手だという人がいます。
不思議なことではありません。ほんとうは誰だって気の合う人とだけつきあっていたいのです。でも社会の中で生きていくとなるとそうもいかない。それがわかっているからこそ集団生活が苦手な人は「このままではマズイ」、とはいえ「どうしたらいいのかわからない!」と焦りや苛立ちを覚えるのでしょう。
私は集団生活が苦手だという人の特徴として真面目で律儀であるということが挙げられると思います。一方、社交的な人は、いい意味で適当。言い方を変えれば距離感を保って人とつきあうことが、人とうまく交流するためのコツであり、社交的な人はそのことを知っているのです。
学校や職場やママ友とのつきあいなど、大勢の人と同時進行でつきあっていく場合、一人ひとりと深く関わるのは不可能。「あちらを立てれば、こちらが立たず」といった問題にぶち当たった挙句に「あなたは優柔不断だ」などと責められることにもなりかねず、心が擦り切れてしまうでしょう。
人とつきあうこと=仲良くなることではありません。打ち解けた関係性を構築する必要はなく、その人との関係性における自分の役割をしっかりとこなせばよいのです。たとえば職場の人達との関係性においては懸命に仕事に取り組む、ママ友達との関係性においては子どものために有益な情報交換に徹するといった具合に。
ただし、ドライに捉えればよいというものではなく、押さえておきたいポイントがあります。それは、
・誰にでもどこへ行っても朗らかに挨拶をすること。
・自分にも相手にもストレスにならない(無理しない、させない)つきあいをすること。
・相手の話を真剣に聞くなど、誠意ある対応をすること。
・笑顔を絶やさないこと。
・自分軸を確立していること。
自分軸を確立するというのは、自分にとって何が一番大切なことなのかがわかっているということ。お釈迦様は、「人生における悩み、不安は、すべて『無明』から始まっている」と説いておられます。「無明」とは真理が明らかになっていないことです。
たとえば職場へ行くのは仕事をするためであって、友達を作るためではありません。目的は食べていくことであるはず。自分が食べていくためなのですから、集団生活が苦手だなどと言っている場合ではないのです。
厳しいことを言いますが、集団生活が苦手だとボヤくのは甘え。怖がらずに飛び込めば、孤独は自分の努力不足が引き寄せた現実だったと気づくことです。
集団の中で虐められたとき
私の元には虐めを受けているというお悩みが老若男女を問わず、数多く寄せられます。学校で、職場で、老人ホームで……。誰も口を聞いてくれない、無視され続ける、変人扱いをされるといったことで傷つき、その集団にいたくないと思い悩む人が後を絶ちません。
まずお伝えしておきたいのは、幸せな人は決して他者を虐めたりはしないということ。他者を虐めようなどと考える人は、「自分は不幸です」と言っているようなものでお気の毒な人なのです。
お釈迦様の教えが記された『ダンマパダ』という経典に、こんな言葉があります。
「汚れのない人、罪のない人、清らかな人を害えば
その愚者にこそ悪は戻る
逆風に投げた微塵のごとく」
虐めをする人というのは、向かい風に対してゴミを投げつけているようなもので、必ず自分に戻ってきてしまうという意味です。
とはいえ問題は、虐めを受けている現状からどうすれば脱却できるのか? ということだと思います。ここでは「慈悲の瞑想」をおすすめします。目を閉じて、心の中でこれからご紹介する4つのフレーズを繰り返し唱えてください。
1私の嫌いな人々、私を嫌っている人々が、幸せでありますように。
2私の嫌いな人々、私を嫌っている人々の、悩み苦しみがなくなりますように。
3私の嫌いな人々、私を嫌っている人々の、願いごとが叶えられますように。
4私の嫌いな人々、私を嫌っている人々に、悟りの光が現れますように。
自分のことを傷つける人に対して、許せない、いつかギャフンと言わせてやりたいという想いを抱くのは普通のことです。でも恨みに対して恨みを持って対処すれば、一番傷つくのは自分。
なぜなら、その恨みはこの世に働く「原因と結果の法則」によって再び自分に戻ってきてしまうからです。
もう耐えられないというのであれば、その集団から抜けてください。学校で虐められて自死といった報道を受けるたびに私が思うのは、命を失ってまで行き続けなければいけない場所などないということです。逃げてはいけないと頑張ってしまう人もいますが、むしろ執拗な虐めからは逃げるべきだと思います。一旦、避難して、新天地を求めて再起動すればよいのです。
ただし、自分が虐められる理由について考え、改善すべき点があれば改善しなければ、どこへ行っても虐めに遭うといったことにならないとも限りません。人間が持つ煩悩の中に「懈怠(けたい)」というものがあります。するべきことを怠れば、その報いが戻ってくる。これもまた自然の摂理なのです。
自分の居場所は自分で作る
人は誰しも自分のことが可愛いものです。それは「自分好き」であるとか「ナルシスト」といった意味ではなく、もっと本能的なもの。
お釈迦様の言葉の中に「自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ」というものがあり、自己は愛しいものだという前提で教えを説いておられます。「自分のことが大切であるのなら、自分のことは自分でしなさい」という意味です。
自分にはどこにも居場所がないとさみしさを抱く人がいます。
どこへ行っても友達ができない、どこへ行っても疎外感を感じる、どこへ行ってもみんなに馴染むことができずに浮いてしまうなどさまざまな人がいますが、そういう方に伺いたいことがあります。それは「もしかするとあなたは、お客様気分でいるのではありませんか?」というもの。
職場などで「よくいらっしゃいました!」と歓迎を受け、同僚や上司が「お名前を教えていただけますか?」「どういうことが得意なのですか?」などと訊いてくれることを期待していたとしたら、そして、その期待が裏切られたのを受けて自分には居場所がないと嘆いているのだとしたら、あまりにも幼いと言わざるを得ません。
挨拶も自己紹介も自分から。評価されたいと思うなら行動で示さなければ、誰もお膳立てはしてくれないのです。
希望を叶えるためには自我を捨てる必要があります。
たとえばあなたの胸に美しい蝶々が止まっていたとして、少しでも長くいてほしいと思ったら、あなたは動かないようにするでしょう。動きたいという自分の意志を殺して、我慢するのではありませんか?
同様に、コミュニケーションが苦手だったとしても、ぐっと我慢して輪の中に飛び込まなくてはいけません。自分の居場所は自分で作るものなのです。
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『ひとりの「さみしさ」とうまくやる本』 大愚元勝 著
(興陽館)
大愚元勝(たいぐ・げんしょう)
慈光グループ会長。駒澤大学、曹洞宗大本山総持寺を経て、愛知学院大学大学院文学修士号を取得。僧名「大愚」は、大バカ者=何にもとらわれない自由な境地に達した者の意。佛心宗大叢山福厳寺住職。僧侶、事業家、作家・講演家、セラピスト、空手家と6つの顔を持ち、「僧にあらず俗にあらず」を体現する異色の僧侶。平成27年に福厳寺31代住職に就任。福厳寺興隆と寺町づくりに尽力する傍ら、佛心僧学院、講演、執筆、Webサイトなどを通じ、仏教に学ぶ「生き方」を、独自の切り口でわかりやすく人々に伝えている。「心が軽くなった」「生きるのがラクになった」と大評判の超人気YouTube人生相談「大愚和尚の一問一答」はチャンネル登録者数42万人を超える(2022年2月現在)。