友達って何ですか?
仏教では祖父母も親もきょうだいも配偶者も「友」。この世で出会う人は、血のつながりがあろうとなかろうと、先輩であろうが後輩であろうが、地位やインテリジェンス度、経済力などに関係なく、どんな人も「友」という認識でおつきあいすることをすすめています。
すべての人が友を持つことができるというのが仏教の考え方です。
親きょうだいや先生は友達ではないでしょう、という声が聞こえてきそうですが、そういう人に「では友達って何ですか? 知り合いとどこが違うんですか?」と尋ねても、うまく答えられないのではないでしょうか。
質問を変えて「あなたが友達に望むことは何ですか?」と尋ねたら、こんな答えが返ってくるのではないかと思います。
何でも打ち明けられること、困ったときには力になってくれること、自分の考えに理解を示してくれること、どこへでも一緒につきあってくれること、いつも味方でいてくれること……。
そうであるとしたら、友達=依存させてくれる人となってしまいます。
いやいや、そんなことはない。なぜなら自分も相手に頼られればいつでも相談に乗るし、無条件で苦悩する心に寄り添うし、とりあえず手を差し伸べますからという人がいるかもしれませんが、それは共依存の関係。互いに傷口をなめ合ったり、闇雲に助け合ったりすることで精神的な成長を妨げ合う不健全な関係性です。
人と人は、互いに自立した者同士が支え合う相互依存の関係でなくてはいけません。自分一人で生きていける人でなくては、他者を助けることなどできないのです。
友達は心のよりどころとして大切な存在だと思います。ご縁があってこの世でめぐり合い、さまざまな経験を共にしながら成長を遂げていく。そんな仲間がいれば、人生は何倍も楽しくなるでしょう。
ただし、自分の人生の主役はあくまでも自分。自分が座長を務める舞台の演出は自分一人で行うと決めることです。そうでなくては何か都合の悪いことが起きたときに誰かのせいにしてしまうかもしれません。
けれど誰かのせいにしている限りは報われない。人は自分に甘いので、自分の演出が悪かったのかと思えば、「それならしょうがない」と流すことができるのです。
誰にとっても人生は孤独な旅です。困ったときに助けてくれる人はいないと思ったほうがいい。助けてくれないのではなく、助ける術がないといったほうがいいかもしれません。
あなたが離婚問題で悩んでいたとして、周囲の人は話を聞くことはできても、結論を出すことは本人にしかできないのです。
ですから誰かに助けてほしいと望めば、その期待はことごとく裏切られることになります。
すると自分はなんて孤独なのだろうと嘆いてしまいがちですが、それは被害妄想というもの。すべては自立していない自分のせいなのです。
人に振り回されない生き方
自分は嫌われているのではないか?
自分はバカにされているのではないか?
自分は必要とされていないのではないか?
自分は邪魔者扱いをされているのではないか?
自分は傲慢だと思われているのではないか?
自分は意地が悪いと思われているのではないか?
自分は見栄っぱりだと思われているのではないか?
挙げていたらキリがありませんが、相談者には他人の評価に翻弄されている人が目立ちます。
他者の目をまったく意識しない人はいませんし、いたとしたら、それはそれで「あの人は空気が読めない」などといったレッテルを張られ、疎んじられてしまうことでしょう。確かに匙加減が難しいところではありますが……。
自分は自分のなすべきことをきちんと行っていると言い切れる人は、他者の評価に惑わされることがありません。自分のなすべきことを行うのに一生懸命で他人の評価を気にしている暇がないからです。
たとえば私のYouTubeのコメント欄には、さまざまなご意見の書き込みがあります。そのほとんどが嬉しい内容ですが、批判的なコメントをいただくことも珍しくないのです。中には「おっしゃる通りだな」と感じるありがたいご忠告もあります。
その一方で、単に私のことが嫌いなのだなと感じるものも。あるいは自己アピールだなと感じるコメントもあります。動画がアップされた瞬間に悪評価がつくということもあるのです。
もちろん私はそのような評価を気にしません。感情的な人達の反応をいちいち気にしていたら、自分の本分を果たすことができなくなってしまうからです。
人の評価に翻弄されて心が疲弊している人は、自分がすべきことをして生きていると言い切る自信がないのではないでしょうか?
自分はすべきことをしているというのなら、人の評価などどうでもいいではありませんか。
きちんと生きているあなたのことを見ている人は必ずいます。それ以前に、誰よりも自分が一番よく知っている。それでいいではありませんか。
素直な人は孤独にならない
お釈迦様は、「注意をしてもらいやすい人でありなさい」と説いておられます。
時折、自分には何も言ってくれるなというオーラを放っている人がいますが、そういう人は成長しません。また、周囲の人からアドバイスを受けたときに不貞腐れたり、なぜ理解してくれないのかと悲観に暮れたり、怒り出したりする人などもいますが、そういう人は大損をしていると思います。
人からの忠告は、自分を改善へと促してくれるありがたいメッセージなのですから。
とはいえ素直であることは簡単なことではなく、実のところ大変な忍耐が求められます。お釈迦様が最高に厳しい修行だと説いておられることが2つあり、1つは「心の安定を備えること」。そしてもう1つが「忍耐を備えること」なのです。
誰かに忠告を受けたとき、ムッときたり、ショックを受けたりしても平常心を保ち、「ありがとうございました」と頭を下げろと言われても、理不尽だと思う気持ちは止められない。悔しい、悲しい、腹立たしいという感情に打ち勝つことは修行僧であっても難しい。
そんな中、私に「お釈迦様のおっしゃることはこういうことだったのか」と教えてくれたものがあります。それは武道です。
さまざまな攻撃を入れられ、それを克服するために練習を重ねることが精神的にも肉体的にも、強さを与えてくれました。
ローキックでKOされ、ボディパンチでKOされ、上段回しげりでKOされ、それでも食い下がっていく。自分の気づいていない弱点を狙われるので、試合に出るたびに気づきがあって、その欠点を克服するたびに強くなる。
相手がどう出てくるかわからない以上、頭の中で考えた勝つための作戦には限界があります。
負けてもいいから試合に出て、経験を積む。それに勝る学びはありません。
すっかり空手の話になってしまいましたが、お伝えしたいのは、日々の暮らしの中で、人からの指摘に素直に耳を傾けるという武器を備えることの大切さです。
注意されると恥ずかしいし、悔しいけれど、そこを超えることが自分を成長させてくれるでしょう。
素直さは心が柔軟な証、そして聡明さの証でもあります。柔軟で聡明な人は周囲の人から信頼され、慕われます。素直な人が孤独になることはないのです。
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『ひとりの「さみしさ」とうまくやる本』 大愚元勝 著
(興陽館)
大愚元勝(たいぐ・げんしょう)
慈光グループ会長。駒澤大学、曹洞宗大本山総持寺を経て、愛知学院大学大学院文学修士号を取得。僧名「大愚」は、大バカ者=何にもとらわれない自由な境地に達した者の意。佛心宗大叢山福厳寺住職。僧侶、事業家、作家・講演家、セラピスト、空手家と6つの顔を持ち、「僧にあらず俗にあらず」を体現する異色の僧侶。平成27年に福厳寺31代住職に就任。福厳寺興隆と寺町づくりに尽力する傍ら、佛心僧学院、講演、執筆、Webサイトなどを通じ、仏教に学ぶ「生き方」を、独自の切り口でわかりやすく人々に伝えている。「心が軽くなった」「生きるのがラクになった」と大評判の超人気YouTube人生相談「大愚和尚の一問一答」はチャンネル登録者数42万人を超える(2022年2月現在)。