文/鈴木拓也
年を重ね、雑事に追われる日々を送ると、青春時代の思い出など忘却のかなたに追いやられてしまう。
しかし、喫茶店で流れる懐メロに、ふと過去の記憶が呼び醒まされたことはあるのではないだろうか。
それは、失恋のような苦い体験かもしれないが、今となってはなぜか心地よい感情を伴うものにちがいない。
そんな「心地よい感情」を想起させてくれる1冊が、『音楽の記憶 僕をつくったポップ・ミュージックの話』(自由国民社)だ。
著者は、「サライ.jp」でもおなじみの作家・書評家、印南敦史さん。実は、印南さんの文筆家としての出発点は音楽ライターであり、物心がついたときから主に洋楽に親しんできた。
本書は、音楽をよすがとして紡ぎ出される彼の思い出が綴られ、同時に名曲への道案内になっているという趣向。
華々しい偉人のエピソードが語られるわけではないが、なぜかページをめくる手が止まらないのは、われわれと共感できる部分が多いから。そんな本書の魅力の一端を、かいつまんで紹介しよう。
自宅が火事にあって「音楽があればなー」
高校2年のある日、印南さんは、祖母の煙草の不始末で自宅が火災にあうという体験をしている。
不幸中の幸いというべきか、燃えたのは二階のみ。しかも、家財道具の多くは、近所の人が持ち出してくれていた。
印南さんは、ほかの生徒が修学旅行を楽しんでいる間、焼け出された荷物を整理する作業に追われる。
作業中に思ったのは「音楽があればなー」だったそうだ。ステレオ、ラジカセ、レコードは助からなかったからだ。
そんなおり、従兄弟の「T兄ちゃん」が、ラジカセとカセットテープを持ってくる。その中には、エリック・クラプトンのバンド、デレク・アンド・ザ・ドミノスの傑作アルバム『いとしのレイラ』があった。
オリジナル・アルバムは2枚組、計77分におよぶ大作ですが、まったく聞き飽きることはありません。なかでも際立っているのは、LPだとD面にあたる「リトル・ウィング」以降。代表曲「いとしのレイラ」につながるその流れは、何度聴いてもスリリングで、そして感動的です。(本書より)
心が折れそうだった印南さんは、T兄ちゃんの差し入れにこうして救われた。これを聴くと今も、黙々と荷物の整理をしていたことを思い出すそうだ。
江口寿史さんのバンドに加わって…
20代に入り、社会の荒波に放り込まれた印南さんは、イラストレーターとして身を立てようと苦闘の日々を送る。
その頃、喫茶店で声をかけたのが縁で、漫画家の江口寿史さんと知り合う(ちなみに本書カバーは江口さん画)。週に何度か吉祥寺の仕事場に行き、レコードを聴いたり、飲みに出かけたりする仲だったそうだ。
ある日、印南さんは江口さんに「一緒にバンドをやらない」と持ち掛けられる。「伝説的なフォーク・シンガーとして知られる」遠藤賢司(エンケン)さんの即席の対バンをすることになり、メンバーを探していたというのがその理由。
若干の紆余曲折あって、印南さんの役割は「リズム・マシンの係」に決まる。機器のオン/オフのボタンを押すだけだったが、それはともかく、江口さんのステージは大いに盛り上がった。そして、エンケンさんの出番になるとライブは最高潮になる。
ギターをかき鳴らしながら歌うエンケンさんのスタイルは「パンク・フォーク」と呼ぶにふさわしく、ステージの端で聴いているだけでグッときました。
なにせ30年以上前のことですから、曲順など覚えていません。
ただ、有名な「カレーライス」が歌われている最中に涙腺が崩壊し、さらに「不滅の男」のときには涙が止まらなくなりました。傑作と名高い1979年作『東京ワッショイ』から誕生した、エンケンさんの代表曲のひとつです。(本書より)
「挫折したイラストレーター」として苦しい思いをしていた印南さんにとって、エンケンさんの歌詞は心を高揚させるものがあった。
その後、印南さんはエンケンさんと電話で話したことが一回だけあったという。だから、2017年に訃報に接したときは、「もっとしつこく電話して、なんとかまたお会いしていていればよかったなぁ」という後悔があったとも記している。
生ける伝説のラッパーと会う
イラストレーターの道を諦めた印南さんが、音楽ライターへの転身をはかったのが31歳。
持ち込んだ原稿が『ミュージック・マガジン』編集長の目に留まっての初仕事が、アルバム『Illmatic』のレビューだった。
本アルバムは、NYのラッパー、Nas(ナズ)のデビュー作。「やや停滞気味だったニューヨーク・ヒップホップの勢いが一気に増した」エポックメーキングな一枚であった。
後に印南さんは、来日したNasのインタビュー記事も書くことになる。これが、16時に楽屋で行うはずが、えんえんと待たされ、始まったのが日付が変わろうかという真夜中。
それもあって印南さんは、才能だけを武器にのし上がった21歳の青年に「ふてぶてしい」という印象を持ったが、同時に「不思議な知性」も感じている。
しかも、それから数十分後にステージに飛び出すと、持ち前のスキルとアクティブな動きによって観客をがっちりとキャッチしてしまったのです。ついさっきまで下を向いていた子とは思えないほどの、圧倒的なアーティスト性を感じさせてくれたわけです。(本書より)
最近になって印南さんは、『Illmatic』をCDよりも遥かに精細なハイレゾ音源で聴き、その傑作性の認識を新たにする。「初めて聴く人にも充分に新鮮」と評価した本作は、この分野の音楽への入り口としてふさわしい。
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本書は、カバーの帯に「ガイドブックではありません。」とあるとおり、楽曲自体をディープに語るものではない。しかしながら、30編のエッセイの中には、60年代生まれの印南さんの人生に影響を与えた30の曲あるいはアルバムの魅力が綴られ、充実した内容だ。ポピュラー音楽が遠ざかっていた人、これから何か聴いてみようかという人の双方に、おすすめできる1冊といえるだろう。
【今日の教養を高める1冊】
音楽の記憶 僕をつくったポップ・ミュージックの話
文/鈴木拓也 老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は神社仏閣・秘境巡りで、撮った映像をYouTube(Mystical Places in Japan)で配信している。