取材・文/ふじのあやこ
昭和、平成、令和と時代が移り変わるのと同様に、家族のかたちも大家族から核家族へと変化してきています。本連載では、親との家族関係を経て、自分が家族を持つようになって感じたこと、親について、そして子供について思うことを語ってもらい、今の家族のかたちを迫ります。
今回お話を伺ったのは、恭平さん(仮名・40歳)。彼は現在、都内の企業で正社員として働き、8年前に5年付き合った3歳下の女性と結婚。5歳の男の子と、2歳の女の子の父親で、週末には家庭サービスを行うなど、円満な家庭を築いています。今の家庭について語る前に恭平さんが育った環境について、話を伺っていきます。
大叔母にこき使われる母親を見るのが辛かった
恭平さんは京都府出身で、両親と3歳上の姉との4人家族。平屋の一軒家には、父方の祖父母も一緒に暮らしていました。父親は自営業で大工をしており、工務店の下請けなどを行っていたそう。母親は週の半分くらいは父の仕事の事務などを手伝っており、毎日忙しくしていたと言います。
「うちの家庭は亭主関白で、父親は子育てに一切参加していなくて、家族旅行などの思い出はありますが、幼い頃の父と2人きりでの思い出は特にありません。母親はずっと優しかった印象が残っています。僕は小さい頃は甘えた(甘えん坊)で、姉がしっかりしていたのをいいことに母親をずっと独り占めしていました。当時、台湾映画のキョンシーが大流行していて、それがすごく怖かったんですよ。そんな時はいつも母親と一緒に寝てもらっていました(苦笑)」
祖父母についても優しかったと言いますが、親族の集まりは嫌な思い出のほうが多いそう。それは祖父の兄妹にあったようです。
「祖父は4人兄妹で、上に兄が1人、祖父の下には妹が2人いました。その妹たちというか大叔母がとにかく下の世代に迷惑をかけるんです。ご飯に注文をつけたり、駅まで行きたいと足に使ったりと、とにかくわがまま放題で。母と父の弟のお嫁さんであるおばさんはいつも振り回されていました。
大叔母たちは結婚していましたが、どちらも子供がいなかったからなのか僕の家に親族が集まっていたんですよ。正月にはお年玉をくれたりするんですが、その喜びよりも母親たちのしんどそうな顔を見たくなかった。僕に直接何かをされたことはないけど、あまり好きじゃない記憶が残っているのはそのせいかもしれません」
そんな親族が集まる辛い時間は中学生に上がったばかりの頃に終わったそう。それは祖父が病気を患い入院したからだと言います。
「祖父はずっと入退院を繰り返していました。病院への送り迎えや、入院の世話などで母親が仕事を辞めたのもこの頃だったと思います。その時には祖母も高齢で世話をできる感じではなかったから、母親がすべてをやっていました。何もしない父親に腹が立ったことがあります。でも、僕も何もしていなかったので。姉は母の代わりに晩御飯を作ったりしていましたが、当時の僕はサッカー部で部活に夢中で。今振り返ると申し訳ない気持ちでいっぱいです」
【祖父母の他界により、母親は離婚を選択。次ページに続きます】