大河ドラマ史上初めて、明智光秀が主人公となる『麒麟がくる』は、これまでの「信長史観」によるドラマ作りとは異なり、「光秀目線」の展開になっている。つまり、従来の信長像や光秀像とは異なる人物像が提示されているのだ。本稿では、『信長全史』(2011年刊/小学館)で精神科医の影山任佐氏が行なった「専門医が分析した信長の深層心理」を再録する。
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「地球が丸いことを瞬時に理解する、理工学的で近代合理主義者の信長は、中世の終わりにいち早く気づいた。そこが中世的保守派の光秀と相容れなかったのでは」
と語るのは、精神科医の東京工業大学・影山任佐教授(当時)だ。
「理知的で、裏切り者には潔癖なまでの復讐心を抱く。残忍かと思えば慈悲深く、猜疑心の塊かと思えば驚くほど鈍感な側面もある」
影山教授は、信長の性格は母親との関係に起因すると指摘する。
「信長の母は弟を溺愛しました。兄弟間で愛情に差別があると、嫉妬心や憎悪を抱き、これが周囲に向けられることがあります。これをカインコンプレックスといいますが、信長にはこの傾向が見られます。青年期にはマザーコンプレックスがあったと思われます」
マザーコンプレックスの方は女性の愛情に恵まれたため克服したとみられるが、カインコンプレックスの影響は生涯にわたって信長を支配したのではないだろうか。
●部下に厳しく接するのは幼少期の体験が原因
(辛辣なあだ名作りの名人)
秀吉は「猿」「禿ネズミ」、光秀は「キンカ頭(金柑頭)」など、家臣のプライドを傷つけるようなあだ名で呼んだ。信長自身はからかっているつもりでも、他者の前で自分の身体的特徴をあだ名された家臣たちの心情は穏やかではなかったはず。
(部下の落ち度で古参を追放)
鷹狩りに出かけた信長の側に、石切り普請中だった丹羽氏勝の家臣が誤って巨石を落とした。怒った信長はその場で担当者を斬り、4か月後には氏勝を突如追放。25年前の反逆行為を理由にあげたが、直接的な原因は巨石落下事件だといわれている。
(反論や賢しらな意見に激怒)
越前朝倉攻めで敵の追撃を怠った家臣団に対し、信長が叱責すると、佐久間信盛は涙ながらに反論。すると信長は「お前は自分の男としての器を自慢しておるのか! 何をもってそんなことをいう。片腹痛いわ」と激昂。ますます機嫌を悪くした。
(怒りに触れぬよう常に恐々)
ルイス・フロイスによると、家臣たちはみな顔に地をつけて信長に対応。信長の一声にみなが即座に反応し、少しの合図でみな即座に任務にとりかかった。少しでも怠慢な態度や落ち度があれば徹底的に罰せられることを家臣たちが知っていたからだ。
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【影山解説】
母親との関係上でライバル関係にあった弟・信勝を殺害して苦痛を断つも、遺恨は自分の中で増幅し、憎しみの矛先は家臣に向けられた。ただし、現実主義ゆえの無能者への不理解など複合的な要素が絡み合っている。また、優れた洞察力と強い猜疑心の半面、他人の心の痛みには驚くほど鈍感な部分もあった。
【カインコンプレックス】
自分は愛されず、弟ばかりが愛されたという子供時代の体験が同性への憎悪に変化。
●弟を溺愛した母が信長を「うつけ」にした。
(信長の母)土田御前は気性が激しい信長より温厚な弟の信勝を溺愛。また経済観念など細かい点で性格が合わず、母子の間に埋めがたい溝を作っていった。ただし、信長は正室、側室の愛情に恵まれたため、コンプレックスを克服。女性に対して優しい心遣いも見せている。
【信長はマザーコンプレックス?】
派手な格好を好み、名馬や名茶器など、人の持つ貴重なもの、珍しいものを欲しがった。貴重な物品に愛情の代償を求めた。
●信長は、自らの頭で考え、咀嚼し、理解する
(地球が丸いことは理に敵う)
信長は、宣教師が献上した地球儀、時計、地図などをよく理解したといわれる。当時、世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、家臣たちは地球儀に関する説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」といい、地球球体説を受け入れた。
(噂の大蛇、生け捕り作戦)
大蛇のいる池の噂を聞いた信長は、大蛇の生け捕りに出かけた。釣瓶を100個用意させ、人海戦術で池の水を減らして大蛇を捕えようとした。しかし、途中でしびれを切らし、脇差を口に咥えて自ら池に潜ったが、大蛇は結局見つからなかった。
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【影山解説】
因習にとらわれることなく理論的に物事を考えられるため、神仏を信じない。伝統重視の光秀とは対照的。人、物、時間、風習などすべてにおいて無駄を嫌い、身分や仕えた年数に関係なくその時々で最適の人材を投入した。楽市楽座などもこれからの社会づくりにおいて必要なものとして採用。また実証的で自分の眼で見たものを信じた。
●裏切り者と期待に違えた者は絶対に許さない
(信玄の背信が長年の鬱憤に)
信長は、同盟を結んでいたはずの武田信玄に裏切られたことを長年、根に持っていた。信玄が没した2年後に起こった長篠の戦いで武田軍を破った直後に細川藤孝宛ての書状をしたため、「ここ数年の鬱憤を晴らした」と嬉々として報告している。
(裏切り者の髑髏は金の杯に)
妹婿の浅井長政には全幅の信頼を置いていた。そのため、越前朝倉攻めに際して長政に裏切られた後の復讐戦は執拗かつ苛烈を極めた。勝利後は長政たちの髑髏を薄濃にして正月の宴で披露、最もこれは、死者への敬意をあらわすものともいわれる。
(ねちねちとした折檻状)
宿老の佐久間信盛・信栄親子を突然追放。命令に反して本願寺を攻撃しなかったことが最大の原因といわれるが、その際に19箇条にもわたる折檻状を送っている。古い話まで書き連ね、詳細を極めた折檻状は、信長の性格を顕著にあらわしている。
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【影山解説】
母親との関係に起因すると思われるが、他人の自分に対する評価が気になる。結果、日常から自己を厳しく管理した。その厳しさは他人にも向けられ、信頼していた者の裏切りや反発、期待に応えない振る舞いには嫌悪を抱く。結果、感情が不安定になり、制御できないほど激しい怒りになる。信長から裏切り行為をしたことはほとんどなかった。
●冷血と寛容――。信長には矛盾する性格が同居していた
(不憫な物乞いに施しをした)
美濃と近江の境でいつもみかける物乞いが、先祖の常盤御前殺しの因果によるものだと知った信長は、木綿20反をその者に与え、村の住人たちにもその者を保護するように命じた。村の者みなが信長の慈悲深さに涙した。
(油断した女房衆の悲劇)
信長が数名の家臣を伴って竹生島に参詣した時のこと、留守の女房衆は気を緩めて桑実寺へ薬師参りに行ってしまった。ところが信長は思いもよらぬ早さで帰還。城がもぬけの空だったため、激怒して女房衆を捕えて縛り上げ、刑罰を与えた。
(ねねへの優しさあふれる手紙)
秀吉の妻・ねねに宛てた手紙の中で、ねねが以前からずっと美しくなっており、これほど才色兼備な女性に対し、秀吉が不足を申すのは言語道断で、どこを探してもねねほどの女性を二度とあの禿ネズミが求めることができない、などとほめている。
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【影山解説】
情は厚いが仕事の上では非常に厳しく、情を切り捨てて理に則って動いた。この見事な切り替えが可能な点が通俗な独裁者と大きく異なる。食欲や性欲など地上的快楽より、知識欲や支配欲など天上的な愉しみが勝るのは統合失調気質とも考えられる。個人的残虐性はなく、新しい時代作りに邪魔なものを果断に排除していった。
【まとめ】
矛盾を内包する極めて複雑な性格の持ち主だった信長。その背景には、母親の愛情に飢えて育った幼少期の心の傷が見え隠れする。派手好みも、マザーコンプレックス的な自己アピールの要素と、古代的理想主義の要素によるものと考えられる。