時折、テレビやラジオから幼い頃に歌った童歌(わらべうた)や小学唱歌が流れてくると、自然と歌詞を口遊んでしまいます。そして、そのメロディーに呼び覚まされるように、子供の頃の思い出が一つ、また一つと脳裏に浮かんできます。
しばらくの間、ほのぼのとした気持ちに浸ることができる一方で、どこか寂しい気持ちだけが心に残ってしまいます。そんな寂しい気持ちが残ってしまうのを、避けたいという想いがあるのか、音楽サイトや音楽CDなどで積極的に童歌や小学唱歌を聴こうとはいたしません。
ですが、ある場面に限って頭の中だけに幼い頃に歌った童歌や小学唱歌のメロディーが流れたり、その歌詞の一節が浮かんでくることがあります。それは、初めて訪れた町や、何気なく立ち寄った見知らぬ町などでのこと。昭和な佇まいの風景や、自分が生まれ育った郷里に似た風景を目の当たりにしますと、その風景が連れて来たように記憶の中にある懐かしいメロディーが流れ始めます。まるで風景動画のBGMであるかのように….….。
そんな時には、表現しづらい寂しい気持ちが残るということはなくて、不思議な感じがいたします。
このような経験はサライ世代に共通する現象なのでしょうか? もしもそうであるなら、この記事で紹介する風景が皆様の「良き思い出への誘い」となりますことを願っております。
町村合併で埋没してしまった地名には、歴史が深く刻まれている
今回、動画の中でご紹介しておりますのは、島根県中東部、宍道湖の西南端から南方へ約15km程の所ある「木次(きすき)」の町並みの風景です。この町は、古くから山陰の沿岸部と奥出雲地域を結ぶ中継の町として発達した歴史があります。
もう10年以上も昔の話になりますが、平成11年(1999)4月から平成12年(2000)3月までの11年間にわたって活発に行われた市町村合併。世に言う「平成の大合併」によって、全国の市町村数は3,232から1,727までに減ったそうです。そのために、慣れ親しんだ多くの町村名が地図から無くなってしまいました。
サライ世代にとっては、とても寂しい出来事として記憶しておられる方も多いのではないでしょうか?
古い町並みを求め、ふらりと立ち寄った木次もそんな町の一つ。平成16年(2004)11月1日に、周辺の町村(三刀屋町・吉田村・大原郡大東町・掛合町・加茂町)との合併が行われるまでは、大原郡木次町木次であったとのこと。木次は、歴史的に出雲国南部の中心地として栄えたところで、かつて大原郡を統治する郡家が置かれていたことが『出雲国風土記』にも記されているそうです。
現在は、雲南市(うんなんし)の中部を占める地区で、雲南市役所の所在地となっています。
その雲南市のホームページにも、江戸時代には出雲和紙の産地として大いに栄えたことが記されています。斐伊川を利用した船運の最終地としてもこの地域は重視され、和紙の市場町・運送の最終地点として大いに栄えたとも。また「江戸時代前期の慶安2年(1649)頃には、毎月3と8の日には6度の紙市が立つほどの賑わいを見せ、現在でもこの地に残る地名の三日市や八日市はその頃の名残である」とも記されています。
見事な桜のトンネルを生み出したのは、遠い昔の「たたら製鉄」との繋がりがあった
ここ木次は、桜の名所として知られ「日本さくら名所100選」にも認定されています。町内を流れるヤマタノオロチ伝説で有名な斐伊川の堤防には、全長約2kmにわたり約800本もの桜並木があります。例年、3月下旬から4月の上旬になりますと見頃を迎えて、見事な桜花のトンネルを演出してくれるそうです。その桜を目当てに、周辺から12、3万人を超える人が、この小さな町を訪れるといいます。
現在、桜の名所となっている斐伊川堤防は、寛永12年(1635)松江藩主京極若狭守が水害を防ぐために築いたことが始まりとされています。斐伊川の上流では、安土桃山・江戸時代の頃から「たたら製鉄」が盛んに行われていたという記録があります。当時は、山砂鉄を効率よく採取する方法として「鉄穴流し」(かんなながし)と呼ばれる採取法が用いられ、純度の高い砂鉄が採取できていたそうです。
しかし、この採取法では砂鉄を含んだ岩石を大量に下流に流すために、砂鉄を取り出した後の残土が河床の上昇を招き、斐伊川を暴れ川にしてしまいました。そのために、斐伊川の堤防は何度も補強されてきたという歴史があります。そうした歴史が、今日の桜の名所「斐伊川堤防の桜のトンネル」を作り出したと考えますと、「たたら製鉄」がもたらした恩恵というべきなのでしょうか? いずれにしましても、歴史が雲南市にとって大きな観光資源を生み出したことだけは確かなようです。
漂う昭和の残り香が、古い映画の一場面のような世界へ誘う
県道45号線を一本入った旧道。JR木次駅から町中へとのびる通りには、昔ながらの町並みが広がっています。
ここ木次は、古くから行政・商業・文化の中心地であったことから、平入りの2階建てや、切妻造りの家屋など、様々な時代を感じさせる建築物を数多く見ることができます。太平洋戦争での空襲も免れ、地震や大火など大きな災害がなかったことが、昔の佇まいが残っている大きな理由ではなかろうかと思いました。
特に、昔の賑わいを想像させてくれたのが、明治24年(1891)創業の老舗旅館「天野館」の佇まい。今では、すっかり珍しくなった木造の旅館は映画のセットの様。建物全体から、レトロな雰囲気が漂い、古い映画の一場面でも見ているような気分にしてくれました。今回は、桜の季節ということもあって、宿泊することはできず、誠に残念でした。改めて機会を作って、この記事で紹介してみたいとの思いを強くいたしました。
そして、今や何処の町でも見かけるコンビニエンス・ストアや全国展開しているようなファストフード店も、ここ木次の町中には見当たりません。そのことも、この町の風情が保たれている理由だということも実感いたしました。
昭和の残り香を楽しみながら、路地へと足を踏み入れると、記憶の時計は逆回りを始め、時代は一挙に4、50年も遡った感じがいたしました。人気はまったくと言っていいほど無く、静まり返っています。しばし遠い昔の空間へ、タイムスリップしたかのような感覚に陥ってしまいました。
木次のように「日本の原風景」を感じさせてくれる町は、全国的に少なくなってきているのではないでしょうか? 桜の時期を過ぎ、静かになった木次は、きっとサライ世代にとって田舎町の良さを十二分に味わせてくれるでしょう。
ぜひ、一度訪れてみては、いかがでしょうか?
アクセス情報
所在地 :島根県雲南市木次町木次
鉄 道 :JR木次線 木次駅
自動車 :松江道三刀屋木次ICから車で約5分
取材・動画・撮影/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
ナレーション/敬太郎
京都メディアライン:https://kyotomedialine.com
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