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「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉がある。『大辞泉』(小学館)によると、親が生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することだという。親を旅行や食事に連れて行くことが親孝行だと言われているが、本当にそうなのだろうか。

晩婚・晩産化が進み、年金を受給後も18歳以下の子供を育てている人が増えた。そのような人を対象に、2024年12月3日、厚生労働省は年金加算を増額する案をまとめ、社会保障審議会の年金部会に示した。これは子育て支援の一環だという。

東京都内で一人暮らしをしている敦士さん(75歳)は「娘が45歳で母になったことは、単純に嬉しい。子育て支援が充実しているからいい世の中になった」と語る。

東京空襲を体験した父の生々しい話と我が子への愛

敦士さんは、ベビーブームの真っ只中である1949(昭和24)年に生まれ、「当時の標準的な家で育った」という。

「実家は港区青山なんですが、今みたいな高級住宅地ではなかったんですよ。豆腐屋さん、八百屋さん、魚屋さん、電気屋さんなど庶民的な商店があり、のんびりした雰囲気でした。ウチも商売をやっていて、漫画の『三丁目の夕日』のような少年時代を過ごしました。ベーゴマ、メンコ、紙芝居とか。あの時代は“色”がなくて、ピンク、赤、黄色、オレンジを見ると心が躍った」

青山エリアの古地図を見ると、高台に旧華族の邸宅があり、低地には住宅がひしめいている。敦士さんの実家は、庶民的なエリアにあったという。「うちの近所にも大きなお屋敷があって、そこには狸も住んでいた」というから、当時の牧歌的な風景が目に浮かぶ。港区公式サイトで旧町名を調べると、三筋町、権田原町、高樹町などの名前が記されていた。

「昭和41(1966)年ごろの町名変更で、それらが“南青山・北青山”になってしまった。その頃からビルが建ち始め、お隣さんがどんどん姿を消していった。父もしばらく頑張っていたんだけれど、知り合いがどんどんいなくなると寂しくなったのか、バブルの少し前に売りました」

人相が悪い人が「土地を売ってほしい」と毎日のように来るようになり、戦争を耐えた両親も観念して売り払い、東京の郊外に一戸建てを購入して引っ越した。

「当時、僕も弟も結婚していて世帯を持っていたんですが、実家の引き渡しの日に父に呼び出された。父は何を思ったのか、昭和20(1945)年5月の山手空襲の話を始めたんです。父は技師だったので、招集はされずに軍需産業の工場長をしていた」

父は空襲の日、両親と兄妹を連れて、皆が明治神宮方面に逃げていた。人が多いほうが危険だと判断し、青山墓地に逃げ込み命が助かったという。

「一夜明けて家に戻ろうとすると、表参道付近が死体の山だったという話のほかに、見たものでないとわからない生々しい話を1時間くらいかけて語るんです。そして最後に“また、戦争が来たら、暗いほうに逃げろ”と。僕も弟も理系の大学に進んだのですが、父が幼い頃から僕たちに“文系の学部に進むなら学費を出さない”と言っていた理由がこのとき、やっとわかりました。父は寡黙でしたが、僕たち兄弟を愛していたんだと。母は東京大空襲で妹を亡くしていますので、戦時中のことは語らないままでした。その日、母がひと足さきに新居に行ったので、父は“話すなら、今夜しかない”と思ったんでしょうね」

そのとき、敦士さんは33歳。すでに娘が産まれていた。理系の大学を卒業後、父の望みに従い、重工業系の会社に入社。地方工場勤務を経て、東京に戻った29歳のときに高校の同級生と結婚したという。

「当時、地方の女性社員と結婚して本社に戻るというのが、モデルケースだったんですが、僕は結婚するなら東京の人と決めていた。ウチは母が職業婦人だったので、手に職がある人がよかったんです」

【孫の顔を見せるのは、親孝行だと後で気づく…次のページに続きます】

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