「娘の結婚や妊娠に親として介入したくない」
妻は学生運動に参加しており、気性が激しい女性だった。
「再会したとき、白いパンタロンをはいて、頭にスカーフを巻いてタバコを吸っていましたからね。当時、学生運動が盛んで、妻もウーマンリブ的なセクト(学生組織)に入っていたのですが、 内部で足を引っ張り合うことや、結局は男性に守られて生きるという世の中は変えられないと思って抜けたと話していました。でも、飽きたんでしょう。流行にすぐ乗るくせに、飽きっぽいですから」
妻は大学卒業後、ヨーロッパに遊学。帰国後は通訳や翻訳などの仕事をしていた。
「特別でも凄くもなくて、当時、僕の周りにはそういう女性が多かった。日本政府も積極的に20代を応援しており、五輪をはじめ60〜70年代の世界規模の運動大会には、そういう若い世代が通訳として参加していました。ボランティアなのですが、渡航費と現地の食事、小遣い程度はもらえたみたいで、私の奥さんもそういう団体に入って、活動をしていた。だからとにかく視野が広く、話が面白かった」
敦士さんは、才気煥発な妻を好きになり、「一生誰とも結婚しない」と結婚を拒否する妻を口説き落としたという。
「高校時代に僕の御し易い性格と、こだわりのなさを知っているから“こいつでいいや”と手を打ってくれたんでしょうね。娘もすぐにうまれ、妻は子育てをしながら、いろんな仕事をしていました」
妻は豊かな人脈から飛び込んでくる、通訳や人の紹介、日本滞在のアテンドなどの仕事をこなしていた。
「当時、スマホもメールもない。夜中にファックスが“ガガガ、ジー”という音を立てて紙を吐き出す。緊急の連絡は家の電話と電報。今思うと、どうやって仕事をやっていたんでしょうね」
妻の負担を考え、子供は娘1人だけにした。
「本音を言えば、男の子が欲しかった。当時は働く女性も少なく、保育園の数も少なく、母親は子育てすべきという圧力もひどく、子育ては大変だった。ただ、両親が本当に孫を可愛がってくれて、連れて行くと幸せそうな顔をしており、庭に砂場まで作り、臼と杵を借りてきて、餅つきまでおっ始めた(笑)。父が“青山から引っ越してよかった”と言ってもらえたのは娘のおかげ」
孫の顔を見せることは親孝行になるのだと、自分が「じいじ」になって気づいたという。
「僕も奥さんも我が子である娘を愛している。娘が幸せならそれでいいと思っていたんです。娘は奥さんに似てアクティブだから、仕事だ遊びだと飛び回って、楽しそうにしている。35歳を超えても結婚の“け”の字もなかったけれど、奥さんも僕も気にしていなかった……というと嘘になるけれど、言わなかった。なんだろうね。都会人のエチケットみたいなもので、“生と死”という生々しいものに、我が子とはいえ介入したくないという共通の思いはあった」
だから、44歳の娘が「お腹に赤ちゃんがいる」と家に来たときは驚いたと言う。
【娘が孫を産んだ理由とは……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。