家族が欲しくて、22歳で結婚する
敏志さんはバーテンダーから商社の社員として働くようになる。昼の仕事の世界に、人生で初めて触れた。
「僕は見習い社員から始めました。繊維関係の商社で、素材を仕入れる部門に回され、岡山、愛知、山形、新潟など全国各地で織物を仕入れていました。100メートル単位で仕入れて、メーカーさんに売る。この会社なら、この布だと目利きのようなことをして、それがピッタリ当たると嬉しかったです」
この会社が解散するまで、15年間働いたという。当時、日本はVANヂャケットに代表されるアパレルブームが巻き起こっていた。銀座には、ジャケットを着崩した「みゆき族」と呼ばれる若者が登場した。
「僕が仕事を始めたのは、その直後。アイビー族が出始めたころ。ブレザーにズボン、チェックのスカート、ローファーのスタイルが大流行し、多くのデザイナーが登場。黒や紺のウールは、いくら仕入れても足りないんです。僕がヒットを飛ばしたのは、遠目から見るとウールなのだけれど、よく見ると化繊でニットという素材。着心地が良くて暖かい。新しい素材で、毛玉も発生しにくいので仕入れたら、多くのメーカーが買ってくれたんです。あの頃、女性のワンピースにこの素材が使われているのを見かけるたびに、嬉しかった」
敏志さんは、服が好きだった。デザイナーが何を求めているか、繊細な感覚で読み取ることができた。20歳で大卒以上の給料を稼いでいたという。
「僕は顔も大人っぽくて体も大きい。16歳でこの道に入ったとき、社長から“中卒だと絶対に言うな。出自や学歴で人を判断する奴がほとんどだ”と言われていた。アパレルは見栄の世界ですから。黙っていれば、相手は勝手に僕を大卒の賢い人だと思ってくれる。そんなものです」
仕事の自信は魅力に繋がり、多くの女性と交際したという。当時は、「結婚まで純潔を保つ」という考えが強かった時代だ。
「とはいえ、こっちは社会の底から人を見て育ったから、純潔どうこうというのは、タテマエだとわかる。遊ぶ女性には不自由しなかったけれど、結婚願望は強かった。家族というものが欲しかったんです」
22歳のときに結婚した妻は信用金庫に勤務していた。
「銀行勤務なら信頼できるだろうと。当時相手は24歳で、結婚に焦っていた。結婚して、2年目に子供が産まれて、専業主婦になったあたりから、雲行きが怪しくなっていった。行動を監視されるようになり、小遣いも減らされた。“いい生活をしたい”というから頑張って働くと、“あなたの体が心配だ”という。言動がいちいち矛盾しているんです」
家が窮屈になった敏志さんは、がむしゃらに仕事をした。28歳のときに恋人もできたという。相手は大阪の大学に通いながら、夜の仕事をしている女性だった。
「行きつけのバーでママが“新顔がいる”と紹介してくれた。僕の好みの大柄で胸が大きいタイプで、8歳年下でした。この子の家で夜中まで過ごして、家族が寝静まった家に帰ったこともありましたね」
彼女との関係は2年間続いたという。ある日、22時ごろ自宅に帰ると妻が窓を開けて「ご近所の皆さん! 敏志は女を作って家族はほったらかしです」と叫びはじめた。6歳の息子が泣きながらそれを止めている。必死で家の中に入れると、妻は敏志さんにものを投げつけ始めた。手当たり次第投げるので、家はあっという間にモノが散乱した。
「家族が欲しかったのに、こんなことになるなんて、考えもしなかった」と、離婚することにした。その半年後、15年勤務した会社は、別の会社に買収され、敏志さんは上京する。
【東京のホテルのマネージャーとして、それなりに成功する……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。