デスクワーク38年、筋トレから始めたラーメン修行
和夫さんはそのラーメン店の店主と顔馴染みだった。当時70代の店主は息子と共に店を経営していたが、息子は妻の海外赴任に帯同することになり、もう戻ってこなくなったということは聞いていた。
「その頃から、その息子の代わりに店をやりたいという願望は芽生えていたんです。僕の実家は製麺所と蕎麦屋をやっていたから、飲食の大変さもよくわかる。それに、料理って実験と同じなんですよね。正確に配合すると狙った通りの味になる。店の主人になるって、男の夢でもありますから。そこで、定年になる1ヶ月前に、ラーメン屋に行き“もうすぐ定年なんだ。おじさん、後継者探しているなら、俺やろうか?”と言ったんです」
店主は「他人には任せらんないから、気持ちだけもらうよ」と言った。和夫さんは店に毎日のように通った。すると店主は「いい加減にしないと、怒るよ」と言い、和夫さんは本気であることを伝える。
「そこで、修行をさせてもらうことになったんです。見習いだから、給料は1日3000円で8時間勤務。仕事内容は、掃除、器を下げること、膨大な量の皿洗いや、店の清掃、代金を受け取ることなど、マニュアルなどないから、体を必死に動かして、生まれる仕事を片付けていきました。あれは冬だったから本当に寒くて、立ちっぱなしで足はガクガク。1日仕事が終わって、すねを押すと、豆型に窪むくらいむくんでいた。飲食店は過酷な仕事ですよ」
その店は人気店ではないので、それほど忙しくはないが、次々と仕事は生まれた。ウオータークーラーの清掃、ティッシュペーパーやトイレットペーパーの補充などやることが多くて驚いたという。
「客として店を見るのと、全然違うの。お客さんも色々でしたよ。ラーメン1杯で長々と居座る人、食い逃げする人、スープが残っている丼に鼻をかんだティシュを入れる人、麺だけを残す人などに微妙に心を抉られていた。あと、面倒なのはスープの素材に何を使っているのか聞いてきたり、俺たちの写真を隠し撮りする人ね。2ヶ月間、毎日通っていたらおじさんも認めてくれて、仕込みを手伝わせてもらうことになったんです」
横で仕事ぶりを見ていて、ラーメンの仕込みは重労働であることに気づいた。それゆえに和夫さんは週に3回ジムに通って筋トレしていたという。半年ほど下働きを経て、ラーメンを作ってもいいと言われるようになった。
「そのタイミングで息子が帰ってくることになったんです。お嫁さんが海外勤務でうつ病になったんだと。それを聞いて“なんだかな”と思いながらも、ホッとしました。それは、ラーメン屋の仕事があまりに過酷だから。おじさんは“悪かったね”と10万円くれました。頑張ってやったのにハシゴをあっさり外された肩透かし感がやるせなく、あれ以来、あの店には行っていません」
それから3年、和夫さんは、特に仕事をしていないという。
「シニア向けの求人サイトに登録していますが、自信がない。妻は“年齢バイアスを取りなさい”と言うけれど、それは難しいよね。この10月から、パートで働く妻も社会保険料を支払うことになったから、手取りが減る。いよいよやばいと思い、仕事探しに本腰を入れています」
その後、和夫さんは同級生が経営する企業で営業の仕事を得たという。「また宮仕えですが、以前から誘ってもらっていたので、ありがたく受けることにしました」と語っていた。
大企業に勤務していたから安泰という時代ではない。たっぷりと退職金や金融資産があっても不安はあり、仕事という生きがいがなくなってしまうと心が弱くなるという。和夫さんは、「55歳くらいから定年後の人生を考えればよかった」と後悔していると語っていた。とはいえ、今は仕事をしている。和夫さんのように前向きな気持ちがあり、動き続ければ、人生は前進するのだ。
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。