父親がいない家庭で育った
益恵さんは、千葉県市川市内で生まれ、都内の短大を出て、大手メーカーに就職。そこで夫と出会った。25歳で結婚し、26歳で娘を産み、30歳で息子が生まれた。
「当時の“マルコー”(高齢出産のこと)は30歳だったから、マルコーになる前に産み切りたかった。あの頃はホントに育児が辛くてね。今みたいにいいオムツもないでしょ? みんな布おむつを洗っていたのよ。主人は全然家に帰ってこないしね。主人はほとんど息子の当時のことを知らないんじゃないのかな。学校の行事も見ていないと思う。当時は都内の社宅に住んでたから、周囲の目もうるさくて。しょっちゅう実家に帰っていたら、ウチの母が“出戻りみたいでみっともない”って、この家を建ててくれたの」
益恵さんの母親は資産家の娘だ。子育ては、益恵さんと益恵さんの母で行った。
「私の父はエンジニアで、当時定年間際だったのに、ほとんど家に帰ってこなかった。ウチの息子は特におばあちゃん子で、息子なんて小学校の給食の時、“なんでりんごの皮がむかれていないんですか?”って先生に質問したんですって。この話を思い出すと、おかしくってね、いつも笑っちゃうのよ」
母と祖母の愛情と、“痒いところに手が届くような”世話を一身に受けて息子は育つ。
「お姉ちゃんは“私に構わないで”って、エステティシャンになって家を出てしまった。結婚して子供も作らず、夫婦楽しくやっているみたいで、今もろくすっぽ家に帰って来ません。言われてみると、息子は一人暮らしをしたことがないですね。最初の会社は独身寮で、寂しかったみたいですしね」
息子は、黙っていれば益恵さんの夫……すなわち自分の父のようなキャリアが形成できると思っていたようだ。
「主人は田舎から東京に出てきて、うんと頑張った人で、厳しいし、上昇志向も強い。“底力”が違うんですよ。でも、息子には息子のいいところがある。頑張ればなんだってできるのだからと、前の会社を辞めてから、大手企業の中途採用試験を受けさせたんですけれど全滅。震災の影響は長かったですからね。ごたごたしている間に、私の母も亡くなって。あの時の息子は、ホントに気の毒でしたね。何日も部屋にこもって泣いていました。それで“僕、弁護士になりたい”って言い出して、母がまとまったお金を残してくれたこともあって、挑戦することにしたのです」
【弁護士の試験勉強をすることに、夫は大反対する~その2~に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などに寄稿している。