取材・文/ふじのあやこ
昭和、平成、令和と時代が移り変わるのと同様に、家族のかたちも大家族から核家族へと変化してきている。本連載では、親との家族関係を経て、自分が家族を持つようになって感じたこと、親について、そして子供について思うことを語ってもらい、今の家族のかたちに迫る。
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ひとり親家庭への食品配付を行っている認定NPO法人グッドネーバーズ・ジャパンは利用者へアンケートを行い、食費、1日の食事回数、労働時間を調査(実施日:2023年1月1日~10日、有効回答数:2087名(首都圏1171名、近畿圏916名))。1日当たりの勤務時間が『8時間以上』と回答した人は全体の21.9%にも上った。
今回お話を伺った、楓さん(仮名・42歳)も忙しく働く母親の姿を覚えているという。父親という存在を知らずに育っており、「母親のパートナーだった人が生物学上の父なのは知っている」と語る。
“父親がいない”と公言させられているような学校行事が嫌いだった
楓さんは埼玉県出身で、母親との2人家族。物心がついたときから家に父親という存在の人はいなかった。その違和感に気づいたのは小学校のころ。当時は今と違い、ひとり親の家庭に対して同情する人が周囲には多かったという。
「今みたいに、配慮っていうのかな、そういうのがなかったんです。幼稚園の頃に私の記憶はうっすらなんですけど、父親の上に乗って行う騎馬戦が運動会にはあって、私は先生の上に乗って行った写真が残っていました。これってみんなに向かって『私、父親いないんですよ』って公言しているようなものですよね。
他にも幼稚園や小学校には、父の日の似顔絵や、父親参観というものもあって、私は周囲に少しずつ“父親がいないことは普通じゃない”と植え付けられていった感じでした。それによっていじめられたことはなかったですが、ただ“かわいそう”という対象ではありました。いじめられたり、除け者にされるよりまだマシだったのかもしれませんけど」
家には父親はいなかったが、たまにお土産を持って来てくれるおじさんがいた。そのおじさんが生物学上の父だと知ったのは中学生。そのときにはすでにそのおじさんは家にやって来なくなっていた。
「これも本当にうっすらとした記憶しか残っていないんですけど、たまにやって来てお菓子をくれるおじさんがいました。私と何か話すとかはなく、本当にお菓子を置いていくだけ。その人はその後に母親と一緒に出掛けるとかでもなくて……、あのときにはもう2人の関係は終わっていたんだと思います。
中学のときに母親とケンカをして、その言い合いの中であの人が父だったことを知りました。お互い冷静じゃなかったから、あのおじさんには他にちゃんとした家庭があることもそのときに知って。まぁそんなところだろうなと想像はしていましたが、本当にそうだったときには『ドラマみたい』と他人事のように思いましたね」
【「学歴が邪魔になることはない」母はお金をかけて大学に行かせてくれた。次ページに続きます】