変化は3年前の妻の体調不良

妻は60歳で定年退職し、女性支援のNPO法人の活動を始めた。生き生きと過ごしていたが、体調不良で家でごろごろすることが増えた。

「アクティブな人が、『腰が痛いし、だるい』などと言って、ベッドにいる。腰や背中を揉んでも、よくならない。病院に行ってほしいと伝えると、『それほどのことではないよ』と言う。渋る妻を無理やり近所の病院に連れて行ったら、すぐに大学病院に紹介状を書かれた。その時に僕は瞬間的に『妻はもう死んでしまう』と思った。あんなことを思わなければ、妻は生きていたかもしれない」

すぐに入院し、外科の手術と抗がん剤の治療が始まる。

「手術に成功して、退院。また体調が悪くなり、入院と退院。高額なサプリメントや祈祷という、がん患者と家族のお決まりの道をたどった。がん患者の体、家族の心は悲惨なまでにぶちのめされている。医師や祈祷師に哀れな姿をさらし、静かに戦わなければならない。それまで無神論者だった妻が、『生きたい』と祈っている。彼女の周りには、それまでの傲慢な部分は消え、ひたむきな空気が漂っていた。その強さと確かな意思に、病室の外から何度も泣いた」

入退院を繰り返すこと1年、少女のようにほっそりとしてしまった妻が息を引き取ったのは突然の事だった。

「前の日に、スイカが食べたいというから、馴染みの百貨店に自宅まで届けてもらった。病院まで持って行き、2人で食べた。かすれているけれど甘い声で『パパ、ありがとう。愛している』って言う。『うん』と返したら、妻は少し笑って寝てしまった。『明日の分もあるからね』と言うと、うなずいて眠りに落ちた。明日こそ『愛してる』と言おうと思った。でも、それが最後の別れになった」

妻が息を引き取った後、娘夫妻と、息子が葬式の手配をすすめた。近郊の公営墓地に墓を買い、49日の法要の後、納骨した。

「あまりにも悲しくて記憶がない。納骨をすぐにしたのは、いつまでも妻の骨を抱えていそうで怖くなった。それに、妻の骨壺を見ていると、自分の中にあった“揺るぎないもの”が、妻からの愛情であることがわかった。それとともに、自分は空虚な人間であるように思えた。余計な感情が削られていき、ひたすら自分の死を願った。そういう毎日が本能的に怖くなった」

妻の死から1年、コロナ禍の中、一史さんは、荒れ果てた庭の草刈りをしている。

「子育てが終わった後、妻と庭を作ってきた。庭を見ると様々な妻の姿が重なった。妻が大切に育てていた多種多様なハーブ、イワタバコ、梅、ハナカイドウ、ライラック、シラカバ……妻が植えた草木が、勝手気ままに育っている。同時に雑草がはびこり、荒れ果てている。今は、余計な草を抜き、元の状態に戻している。妻が闘病中に『こんな病気になったのは、たくさんの草を引っこ抜き、殺虫剤で虫を殺しちゃった罰が下されたのかな』と言っていた。それなら僕も同じ罪を受けて、早く妻のところに行って『愛してる』と言いたい。庭の手入れを始めてから、妻が夢に出てきてくれるんだよね。パーラメントをふかして、ミニスカートをはいているんだ。妻のところに行く前に、もう一度高尾山に登り、横浜に行きたい。妻とは、ロサンゼルス、ニューヨーク、リオデジャネイロ、パリ、バルセロナ……いろんなところに行ったな。最後は妻の病でキャンセルした、リスボンの“ここで地終わり海始まる”の地点で死ねれば本望だよね」

取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)、『週刊朝日』(朝日新聞出版)などに寄稿している。

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