取材・文/坂口鈴香

(C) 2021 Dogwoof Ltd – All Rights Reserved

マイテ・アルベルディ監督によるドキュメンタリー映画『83歳のやさしいスパイ』が7月から公開される。

80歳以上のスパイを募集する求人に応募し、採用された83歳の男性セルヒオ。ミッションは、ある老人ホームでの潜入捜査だ。そこに入居する女性が虐待されていないか、様子を探ることに――

83歳のスパイ。そのミッションとは

施設にいる親は、ちゃんと見てもらえているだろうか? 施設の入居者への虐待のニュースなどを目にするたびに、不安になる子どもは少なくないだろう。

ある有料老人ホームでは、「見えないところでスタッフが親にどんなことをするかわからない」と部屋に監視カメラをつける家族がいるという。

さて監視カメラならぬ、スパイを送り込んだというのがこの映画だ。依頼人は入居する女性の娘。母親がスタッフに虐待されているのではないかと疑っている。80歳を過ぎても働きたいという多くの応募者の中から選ばれた、83歳のセルヒオが老人ホームに入居し、依頼者の母親が適切なケアを受けているかを探るというストーリーだ。

いや、ストーリーというのは正確ではないだろう。この映画はフィクションではなく、ドキュメンタリーなのだ。スパイとしてホームに潜入するセルヒオも俳優ではないし、ホームの入居者たちも皆実際の入居者だ。

チリにある特別養護老人ホームの協力を得て、撮影クルー4人は撮影をはじめる2週間前からホームに入り、仲間として過ごしたという。さらに撮影にも3か月もの時間をかけることで、入居者たちはカメラを意識することなく、素の表情や感情を表出することができたのだ。

魅力的なスパイが入居者を癒す

映し出される入居者たちの姿はまさにリアルだ。家族に捨てられたと嘆く女性。夕方になると「門を開けて。家に帰りたい」「ママ、迎えに来て」と叫ぶ女性……。国は違っても、年を取ることの悲しみや苦悩は共通なのだと感じる。そして同時に、これは数年後か数十年後の自分の姿なのかもしれないと、背筋がヒヤリとするのだ。

さて、スパイとなったセルヒオは任務に忠実なだけではなかった。相手の話を親身になって聞く、共感する……忙しい介護士にはとても無理だろう。男性4人に対して女性40人という環境もあってか、セルヒオはあっという間に人気者になる。そして、入居者たちはセルヒオに本心を明かす。

「子どもが小さかったころは幸せだった」
「今は子どもたちも忙しい。怒ったところでどうにもならない」
「人生って残酷」
と……

セルヒオは、家族が一度も来てくれないと悲しむ女性に、「来てくれていることを忘れているだけで、来てくれていますよ」と声をかける。しかし、面会記録には彼女を尋ねた人の名はひとつもなく、図らずもセルヒオの言葉は優しいウソとなってしまった。そこでセルヒオは、女性の娘や孫の写真を取り寄せて、思い出話を聞く。女性の体調が悪くなったときには「怖いんですね」「泣いてもいいんですよ」と言葉をかける。これほどの名カウンセラーがいるだろうか。

家族にしかできないこと

3か月後、潜入捜査は終了し、セルヒオは探偵社のボスに捜査結果を報告する。

ホームで犯罪は起きていたのか。
虐待はあったのか。
そして依頼者の母親に一番足りなかったのは――

セルヒオが出した結論は、ぜひ映画を見てほしい。

冒頭で紹介した、監視カメラをつけられた老人ホームのスタッフは、「犯罪者扱いされているのが悲しい」と嘆いた。

老いた親に必要なのは、ホームのスタッフを監視することではない。親に会いに行くこと。そして介護してくれているスタッフをねぎらい、感謝することではないか。

介護は大変だ。家族は、介護をプロの手に任せることを後ろめたく思う必要はない。でも、介護士に家族の代わりはできない。介護自体はプロに任せても、会いに行って話をすることは、家族にしかできないのだ。

とはいえ、そんなことが言えるのも平時の話。コロナ禍で、親と会いたくても会えない家族は多い。コロナが収束しても、老親に与えた精神的後遺症はそう簡単には回復しないだろう。それでも、今はただ命を守ることに専念するしかない。

* * *

この映画は単なる介護ドキュメンタリーではない。セルヒオに恋する女性はチャーミングだし、何よりセルヒオが魅力的なのだ。だから、身構えることなく楽しめるはずだ。

そしてもうひとつ、重要なテーマがある。高齢者の生きがいだ。いくつになっても誰かの役に立っていると思えることが、いかにその人を生き生きとさせるか。80歳から90歳という求人に応募してきた男性たちの切実な声も胸に響いた。

セルヒオは、任務を終えたあと家族のもとに戻ったが、セルヒオのような働きたい高齢者を継続的に受け入れてくれるホームはないだろうか。寄り添ってくれる同世代の仲間がホームにいれば、少なくとも絶望的な孤独を感じることはなくなるのではないかと思う。たとえそれがスパイであっても。

83歳のやさしいスパイ
7月よりシネスイッチ銀座ほか全国順次公開
監督・脚本:マイテ・アルベルディ 出演:セルヒオ・チャミー ロムロ・エイトケン
2020年/ドキュメンタリー/チリ・アメリカ・ドイツ・オランダ・スペイン/89分/カラー/ビスタ/5.1ch
日本語字幕:渡邉一治
配給・宣伝:アンプラグド 
公式サイト:83spy.com
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取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。

 

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