文/印南敦史
ご存知のとおり、弥生時代にインドで作られたと思われる『般若心経』は、われわれ日本人にとっては身近なお経だ。その証拠に、いまもなお葬式、法要の場、あるいは神社仏閣で神仏を前に唱える人も少なくない。
だが漢文で書かれているだけに、その意味について理解している人は少ないだろう。解説書の類は多いが、専門的で難解なものばかりなので、どうもピンとこないと感じている方もいるのではないだろうか。
そういう意味では、本当に『般若心経』の本質が理解されてきたとはいえないのかもしれない。宗教学者である『ブレない心をつくる「般若心経」の悟り』(島田裕巳 著、詩想社新書)の著者も、その点を問題視している。
専門家は細部にこだわり、全体を俯瞰する目を持たないため、解説書は“深い森”になってしまうというのだ。僧侶にしても、ぞれぞれが属する宗派の進行に縛られているため、やはり俯瞰する目を持つことができないわけである。
けれどもそれでは、知識のない一般読者に『般若心経』の本質が伝わらなくても無理はない。そこで語られていることからなにを学ぶべきなのかという、肝心なところが明らかにならないということだ。
『般若心経』の第一の魅力は、そのいさぎよさにある。全てを空(くう)としてとらえ、いっさいの妥協を許さないことで、それに接する人間は、衝撃を受け、自分がつまらないことにこだわってきたことを感じる。つまり、『般若心経』には、それ自体に煩悩を一掃する力が込められている。今流行りの言い方をすれば、『般若心経』は、パワー・スポットならぬ、『パワー・ブック』である。(本書「はじめに」より引用)
そこで本書では、『般若心経』とはなにかという基本にはじまり、それが我々になにを伝えようとしているのか、それが仏教の歴史のなかでどんな意味を持つのか、『般若心経』に接することで、我々がどう救われていくのかなどについて解説しているのだ。
なかでも個人的に響いたのは、著者が『般若心経』の「ことばの力」を強調している点である。
『般若心経』は、短い経典ではあるが、その内容は豊かで、複雑な部分も含み混んでいる。仏教の教えのエッセンスが盛り込まれていると言われることが少なくないが、そう言っても決して間違ってはいない。
『般若心経』の内容を理解していくことによって、釈迦がどういった教えを説いたのか、その中心となるものを知ることができる。(本書127ページより引用)
さらには、仏教が原始仏教から部派仏教へ、さらには大乗仏教から密教へと発展していった歴史を踏まえ、それぞれの仏教がどのような特徴を持っているのかを学んでいくこともできるのだそうだ。
それは他の経典にはない『般若心経』ならではの特徴であり、そう云う意味でも『般若心経』はとても便利な経典だというのだ。
とはいえ多かれ少なかれ、知識を持たない一般人である我々の前には「きちんと理解できない」という壁が立ちはだかってしまうだろう。そこが一番の問題だといっても過言ではない。
しかし著者は、たとえ詳しい内容を把握できないとしても、『般若心経』のなかに出てくる印象的なことばや表現をピックアップするだけでも大いに意味があると主張する。
「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」という特徴的な表現は、逆説的で面白い。禅問答のようでもあるが、何か重要なメッセージがそこに込められているように思える。
あるいは、「空」や「無」といった単語も、『般若心経』に接すると、とても大切なものだということが改めて認識されてくる。「羯諦 羯諦(ぎゃてい ぎゃてい)」という真言の部分になると、その意味は皆目分からないものの、ことばとして強く印象に残る。そこには、何か特別な力が込められているように思えてくるのだ。(本書167~168ページより引用)
『般若心経』について、たとえその内容を理解できなかったとしても、なにか強い印象を受けたことばを見つけ出すことができればいい。それだけで、この経典を知る価値があるというのだ。
なぜなら、使われることばにインパクトがあるから。だからこそ、『般若心経』は長く愛されてきたとも言える。それが著者の考え方だ。
そう考えれば、『般若心経』についての「興味はあるが、難しそうだからなかなか足を踏み入れられない」という思いはクリアすることができるのではないだろうか? このような柔らかいスタンスが、『般若心経』と私たちとの距離を縮めてくれるように思うのだ。
いよいよ年末となり、令和元年が終わりに近づいている。そして、年が明ければ多くの人が初詣をすることになるだろう。そんな時期だからこそ本書を通じ、改めて『般若心経』の基本を学んでみてはいかがだろう?
そうすれば、清々しい気持ちで新しい年を迎えることができるかもしれない。
『ブレない心をつくる「般若心経」の悟り』
島田裕巳 著
詩想社新書
定価:本体1000円+税
2019年11月発売
文/印南敦史
作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』などがある。新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)。