文/鈴木拓也
アルコールハラスメント、略してアルハラなる言葉が流行しつつあるように、飲酒に対する世間の目は厳しくなった。職場づきあいの酒席でも、酔って上司に絡もうものなら、出処進退にかかわりかねない…そう考えてしまうのか、若い世代の酒離れは進むばかり。
左党には生きにくい世かもしれないが、最近まで(といっても平成時代の前だが)、著名人らのまさかと思うような酔っ払いの武勇伝が転がっていたのである。
先般刊行された『人生で大切なことは泥酔に学んだ』は、そうしたエピソードが満載の「酒豪列伝」だ。取り上げられている人物は、知らぬ人なき文士、政治家、俳優、スポーツ選手たち。名声の陰には、酔ってのとんでもない言動が隠れていて、まさに驚き。
■酔いに任せて砲撃した黒田清隆
例えば、明治時代の政治家黒田清隆は、「酔っ払って住民を誤射」したという。
これは、開拓使の長官時代のことで、船の中での議論に苛立って、沖の岩礁めがけて砲撃を命じたところ、砲弾はそれて漁師小屋に命中。漁師の娘が亡くなった。
砲撃の真の理由は謎だそうだが、この時の黒田は、「いずれにせよ酔って」いたそうで、酒乱伝説の始まりである。
2年後の明治11年、今後は泥酔して帰宅したところ、「出迎えが遅いと腹を立て」自分の妻を斬り殺したと、当時の新聞が報道。世の中は騒然となり、大久保利通が腹心の大警視を使ってもみ消し工作に走ったという。
事の真相はともかく、いったん酔いが回ると伊藤博文や井上馨を罵倒するわ、ピストルで脅すわ、手がつけられなかったのは確かだそうで、武勇伝というより甚だ迷惑なだけの存在。こんな人物が、二代目の内閣総理大臣まで上り詰めたのだから、歴史とは不可思議である。
■酔って他人の家にあがりこんだ小林秀雄
「近代批評の神様」と称される小林秀雄。酒とは無縁そうな怜悧なイメージがあるが、酒癖の悪さは天下一品。編集者たちは、「酒乱」と陰口を叩いていた。
本書では3つのエピソードが語られている。最初は、酔って正体を失い駅のホームから落ちた話。戦後間もなく駅の造りは粗雑なため、隙間から落下したという。手には半分呑み残した一升瓶を持っていた。
一升瓶は粉微塵になったが、小林本人は奇跡的にかすり傷1つなかったというから、強運の持ち主だ。しかし、この出来事を知った文壇の一部作家は、彼の綴る難解な文章に疑問を抱く。坂口安吾は、「小林の文章にだまされて心眼を狂はせてゐた」「今読み返してみると、ずゐぶんいゝ加減だと思はれるものが多い」などと言い出す始末。
しかし、小林はめげない。もう1つの逸話は次のようなものだ。
ある晩、小林と従兄弟が東京でしこたま呑んで自宅のある鎌倉に帰った。呑み足りなく、路地裏の待合に入ることにした。「酒をくれ」というと怪訝な表情で中年の女性がお銚子を持ってきたが味が悪く、小林は、まずい、サービスも悪いと感情をあらわにし、従兄弟に店を出るように促すと先方は「冗談じゃない!」と激高した。(本書66pより)
それもそのはずで、小林が飲み屋と思って入ったのは民家。家の人が、暴れられては困ると思って酒を出したのであった。また、別の日の話として、電車で偶然見かけた有名俳優に「チンパンジーに似ているね」と酔った勢いで話しかけ、張り倒されている。
■ビール壜で頭を殴った中原中也
そんな小林秀雄が通ったという日本橋のウヰンザアというバーは、中原中也も常連だったが、この早世した詩人も酒で悪名を轟かせた。それも小林が閉口するほどだったという。
本書には、文芸評論家の中村光夫の回想録からの引用が載っている。それによると、中村は、知人のアパートで中原と酒を呑むたびに「今夜は大変だぞ」と覚悟したという。素面では気のやさしい人物なのに、酒が入ると暴君へと変身するからだ。
ある時など、中原は「殺すぞ」といって、中村をビール壜で殴った。同席していた、美術評論家の青山二郎が、「殺すつもりなら、なぜ壜の縁で殴らない」などと怒鳴ると、中原は「俺は悲しい」と叫んで泣き伏す。凄まじいカオスであるが、中村は「中原氏の『悲しい』という気持ちは、その場でよくわかり、氏を怨む気持ちは少しも起こりませんでした」と大人の対応(?)だ。
太宰治も、初対面で中原に絡まれて家に逃げ帰ったというが、その太宰も酒が入るとまともではなくなった。その辺の事情は、本書の第一章に書かれているが割愛したい。
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著者の栗下直也さんは、産業専門紙の記者職。入社当時、新入社員歓迎会の帰りの満員電車で酔って大の字になって寝てしまったという猛者だ。「新橋系泥酔派」を自認する栗下さんが、本書で取り上げた酔いどれ偉人を見る目は、あくまでも温かい。お酒を愛するすべての人に、読んでほしい1冊である。
【今日のお酒がおいしくなる1冊】
『人生で大切なことは泥酔に学んだ』
http://sayusha.com/catalog/books/p9784865282399c0095
(栗下直也著、本体1,800円+税、左右社)
文/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は散歩で、関西の神社仏閣を巡り歩いたり、南国の海辺をひたすら散策するなど、方々に出没している。