「前大僧正慈円」(さきのだいそうじょうじえん)は、天台宗の僧であり、歌人です。父は藤原忠通(ふじわらのただみち)、兄はかの有名な九条兼実(くじょうかねざね)。
つまり慈円は、摂関家という当時の最高権力者の家柄に生まれながら、みずから出家の道を選んだ人物なのです。天台宗の総本山・比叡山延暦寺のトップである天台座主(てんだいざす)に、なんと4度も就任しています。これは異例中の異例のことで、慈円がいかに宗教界において卓越した存在であったかがわかります。
彼の偉大さは、宗教家を超えた多才さにあります。日本初の歴史論評書『愚管抄』を著し、独自の歴史観である「道理」を説いて後鳥羽院の倒幕計画を諌めるなど、公武の協調を願う政治的先見の明を持っていました。
また、歌人としても超一流で、『新古今和歌集』には西行に次ぐ91首が入集。甥の良経や藤原定家らと共に歌壇を牽引し、新風を吹き込みました。
貴族から武士へと権力が移り変わる時代の転換期。ある時は祈り、ある時は筆を執り、人々の救済と国の安寧を願い続けた慈円は、死後に「慈鎮和尚」の名を贈られました。情熱的に生きたその生涯は、今もなお私たちの心を深く打ちます。

前大僧正慈円の百人一首「おほけなく~」の全文と現代語訳
おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に すみぞめの袖
【現代語訳】
身の程知らずなことかもしれないが、この辛く苦しい世を生きる人々を、包み込んでお守りしよう。私が住み修行する比叡山の山で、この私の墨染の袖(僧衣)によって。
『小倉百人一首』95番、『千載集』1137番に収められています。慈円が生きた時代は、まさに激動の時代でした。
平安貴族の世から武士の世へと移り変わる中で、源平合戦が起こり、多くの民が苦しみました。「おほけなく」(身のほどもわきまえず)という言葉には、慈円の謙虚さが表れています。
「わが立つ杣」(そま)は、木を切り出す山、ここでは伝教大師最澄が開いた「比叡山」を指します。「すみぞめの袖」は僧侶が着る黒い衣のことです。
仏教の頂点に立つ者として、自分の力は微力かもしれない(おほけなく)と謙遜しつつも、仏の教え(墨染の袖)で苦しむ民衆をすべて覆い尽くし、救済したいという強い決意がひしひしと伝わってきます。

前大僧正慈円が詠んだ有名な和歌は?
前大僧正慈円が詠んだ他の歌を紹介します。

わが恋は 松を時雨の そめかねて 真葛が原に 風さわぐなり
【現代語訳】
私の恋は、松を時雨が染めかねるように、涙を流してもあの人の心を変えることはできず、ただ真葛が原に風が騒ぐように、胸を騒がせ、葛が葉の裏を見せて翻るように、あの人のつれなさを恨んでいるのだ。
『新古今和歌集』1030番に収められています。高僧である慈円ですが、このような繊細で切ない恋の歌も詠んでいます。
これは実際の恋愛というより、和歌のテーマとして与えられた「題詠」(だいえい)において、自らの想像力と表現力を駆使して詠まれたものです。人間の心の機微を深く理解していた慈円ならではの、情景豊かな名歌です。
前大僧正慈円、ゆかりの地
前大僧正慈円のゆかりの地を紹介します。
比叡山延暦寺
滋賀県大津市にある比叡山延暦寺。百人一首の歌にある「わが立つ杣」とは、まさにこの比叡山のことです。慈円はここで厳しい修行を積み、後に天台座主としてこの山を統括しました。境内はユネスコの世界遺産にも登録されており、今なお多くの参拝者が訪れます。
青蓮院(しょうれんいん)
京都市東山区にある青蓮院。天台宗の三門跡寺院の一つで、皇室や公家と深いつながりを持つ格式高いお寺です。慈円は若くしてこの青蓮院の門主(住職)となりました。
最後に
百人一首には、恋の歌や美しい自然を詠んだものが多いですが、前大僧正慈円の「おほけなく~」のように、混迷する社会の中で人々の幸せを本気で願った、スケールの大きな歌も存在します。
「身のほどもわきまえず」と自分を戒めながらも、どうしても民を守りたいという気持ちを抑えることができなかった… そんな慈円の姿は、800年の時を超えて、今の私たちの胸にも響くものがありますね。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『全文全訳古語辞典』(小学館)
『原色小倉百人一首』(文英堂)
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●執筆/武田さゆり

国家資格キャリアコンサルタント。中学高校国語科教諭、学校図書館司書教諭。現役教員の傍ら、子どもたちが自分らしく生きるためのキャリア教育推進活動を行う。趣味はテニスと読書。
●構成/京都メディアライン・https://kyotomedialine.com
●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp











