どこから出てきたのか。足軽あがりのその者には稀なる才が宿っていた。その才を持って、民草(たみくさ)から天下人へと駆け上がった、日本史上ただひとりの男。豊臣秀吉。その謎に満ちた生涯を、解き明かす。
「日本の中心となる巨大都市と城の一体化を目指したのです」中井均さん(滋賀県立大学名誉教授)

【大坂夏の陣図屛風(右隻)】重文、江戸時代(17世紀)。武将の黒田長政が大坂の陣の戦勝祝いとして描かせた六曲一双の屏風。左端に漆黒の大天守が威容を誇る。落城した慶長20年(1615)5月7日の大坂城を描いたとされる。大阪城天守閣蔵 写真/大阪城天守閣
関西の大都市・大阪(明治以前は大坂)には、広大な大阪城公園がある。大坂城といえば「豊臣秀吉の城」というイメージをもたれがちだが、現在の城跡は豊臣家が滅んだのちに徳川家が築いた大坂城の遺構だ。徳川時代の石垣の上に、秀吉時代の大坂城天守をモデルにした大阪城天守閣(※)が立つ。
秀吉の大坂城とはいったいどんな城だったのか。考古学を専門とする中井均さんはこう語る。
「天正11年(1583)に秀吉は大坂城の築城を開始します。黒漆塗りの外壁に金箔瓦を飾った五重の天守を中心にして、それまで誰も見たことのない巨大な城郭が生まれたのです。
秀吉の大坂城で注目したいのが惣構の導入です。惣構とは、城下町ごと堀などで囲い込む防御線を指します。大坂城の北側には淀川が流れ、残る三方に巨大な堀を掘削して守りを固めました」
大坂城の惣構は実戦で真価を発揮した。慶長19年(1614)、大坂に約20万の徳川軍が押し寄せた大坂冬の陣で、10万強の豊臣軍は惣構で大坂城を守り切ったのだ。しかし大坂冬の陣の後、和睦の条件として惣構を始めとする堀が埋められ、大坂城は丸裸になった。そして翌年、家康は再び大坂に大軍を集結させ、惣構のない大坂城はあえなく落城した。このときの様子を描いたとされるのが『大坂夏の陣図屏風』である。
※天守閣は江戸時代後期から使用されるようになった呼称。学術用語としては天守もしくは天主が用いられる。
平地に築いた画期的な城
大坂城の立地にも、秀吉の画期性が見られると中井さんは語る。
「秀吉の主君・織田信長は安土城(滋賀県)をはじめ、居城を山の上に築きました。これに対して秀吉は、大坂城を平地に築いたのです」(中井さん、以下同)
安土城以前の日本の城は、山の上に土塁や空堀などを築いた「土造り」の城がほとんどだった。
「信長は安土城で石垣を高く築き(高石垣)、瓦葺きの建物を配し、中心には城内でもっとも大きい建築である多層の天主(天守)を構えました。この点で、安土城は日本城郭史における革命的存在といえます。それでも、山に城を築いたという面で、立地や城全体の構造は戦国時代の城と大きく変わりませんでした」
信長とは異なり、秀吉は平地の城を志向したが、最初から平地に城を築いたわけではなかった。
天正10年の本能寺の変で信長は最期を遂げた。その後、秀吉は初めて自身の意志で城を築く。それが、大阪府と京都府の境に位置する天王山に築かれた山崎城だ。
「天王山は仇敵・明智光秀を討った山崎合戦の舞台です。その地に城を築き、秀吉は自身が信長の後継者であることを示したのです」
この行動に激しい不快感を示したのが、秀吉のライバル、柴田勝家だった。両者は賤ヶ岳の戦いで激突し、勝家に勝利した秀吉は山崎城をあっさりと廃城にした。信長の後継者として名実ともに認められた以上、もはや山崎城は不要になったのだろう。そして、秀吉は大坂城の築城に着手する。
解説 中井均さん(滋賀県立大学名誉教授)

※この記事は『サライ』本誌2026年2月号より転載しました。












