最後の将軍の高祖父と現代の徳川宗家の祖
A:一方、水戸藩の治保ですが、孫が幕末の斉昭、ひ孫が最後の将軍慶喜になります。尾張、紀州と比べたら、何事もなくという感じです。そして、治保の次男義和は尾張藩の支藩である美濃高須藩に養子に入ります。幕末ファンには著名な高須四兄弟(尾張藩主慶勝、一橋家を継いだ茂栄、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬)も治保の子孫になりますし、現在の徳川宗家も男系でたどると治保にいきつきます。ちなみに桑名の松平家は、松平定信の家系が白河から桑名に転封した家になります。
I:ということは、御三家が揃って登場したあの場面は「徳川の未来」を見通していたレアな場面になるといってもいいのですね。
A:「徳川の未来」? たしかに徳川(一橋)慶喜は、治保のひ孫、高須四兄弟も治保のひ孫で、彼らは「はとこ」の関係です。大阪経済大学の家近良樹先生が提唱した「一会桑」(一橋、会津、桑名)は、みんな親戚だったんですね。
I:さて、御三家の面々が登場する場面から「徳川の未来」について考えてみました。
A:よくよく考えると、この場面がなくても物語はつないでいけたと思うのです。にもかかわらず、なぜ制作陣はこの御三家の場面を入れ込んできたのか?
I:なんだか意味がありそうですね。
A:田沼意次を非難して、「徳川家斉将軍-松平定信老中」への転換を主導したわけですが、結果的に、この行為は「幕府滅亡」の導火線に着火したともいえなくもない。そういう事実を、描かずにはいられなかったのではないかと思ったりしています。
I:なるほど。でも機会があったら確認した方がいいですよ。
A:御三家の面々が非難した田沼意次は600石という軽輩の身から5万7000石の大名に立身しました。御三家の人たちは、もとは紀州藩軽輩の人物に幕政を仕切られるのが嫌だったんでしょう。でも、ほぼ80年後には幕府は滅び、薩長土肥の中下級藩士が中心となった新政府が樹立されます。軽輩の田沼が嫌でとった行動がさらに外様の中下級藩士ですからね。
I:なんという「歴史の皮肉」でしょう。そういう流れを知れたということだけでも御三家の場面は、意味のある場面だったということがわかります。
●編集者A:書籍編集者。『べらぼう』をより楽しく視聴するためにドラマの内容から時代背景などまで網羅した『初めての大河ドラマ~べらぼう~蔦重栄華乃夢噺 歴史おもしろBOOK』などを編集。同書には、『娼妃地理記』、「辞闘戦新根(ことばたたかいあたらいいのね)」も掲載。「とんだ茶釜」「大木の切り口太いの根」「鯛の味噌吸」のキャラクターも掲載。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好きで、猫の浮世絵や猫神様のお札などを集めている。江戸時代創業の老舗和菓子屋などを巡り歩く。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり
