9歳で天皇に
長和5年(1016)1月29日、わずか9歳で天皇に即位しました。幼少での即位であったため、外祖父の藤原道長が摂政として短期間政務を執りました。道長はのちに息子の頼通に摂政職を譲り、頼通は関白として引き続き政務を担ったのです。
三后の存在と藤原氏の栄華
後一条天皇の治世において、太皇太后(彰子)、皇太后(三条天皇の中宮・妍子<きよこ、または、けんし>)、皇后(自身の中宮・威子<たけこ、または、いし>)の三后が同時に存在しました。
いずれも藤原道長の娘であり、これは藤原氏の絶大な権勢を象徴するものでした。道長が「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだのも、この時期のことです。
皇太子の交代
当初、皇太子には三条天皇の第一皇子である敦明親王(あつあきらしんのう)が立てられていました。しかし、藤原道長の圧力により、敦明親王は皇太子の地位を辞退します。その後、後一条天皇の同母弟である敦良親王(あつながしんのう、後の後朱雀天皇)が皇太子となりました。
晩年と崩御
長元9年(1036)4月17日、後一条天皇は29歳で崩御しました。遺言により、喪を秘して弟の敦良親王への譲位が速やかに行なわれたといいます。崩御後、火葬され、その跡地には母・彰子によって菩提樹院が建立されました。
まとめ
後一条天皇の生涯は、藤原道長とその一族の権勢が最も強かった時代と重なります。幼少での即位から若くしての崩御まで、彼の治世は常に藤原氏の影響下にありました。しかし、その間にも文化や芸術は発展。平安時代の華やかな宮廷文化を築く一助となったのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)