部下を教育する、ということで悩んでいる方は多いことだろう。
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部下への教育方法の知見を得よう。

* * *

「“教えない”という教え方」はビジネスシーンでも有益か

教師が何かを教えようとする際に、明示的に「正解」を与えても学習者の力は育たない。教師は学習者が自ら答えを見出していくための「装置」を設け、学習者が自分の頭でじっくり考え、学習事項の本質に自らの力で気づくよう配慮することが、学習者の能力向上につながる。
ビジネス場面における上司の「指導」に関しても同様のことがいえるのではないか。
実例と筆者の体験をふまえ、以上のような仮説を提示する。

教育現場とビジネスシーンをめぐる仮説

上司が部下を指導する。
先輩が後輩に仕事を教える。
どちらもビジネスシーンで当たり前に見られる光景です。

人が人を指導するとはどのような行為なのでしょうか。
また、翻って、人の学びはどのようにして生じるのでしょうか。

教えることのプロフェッショナルである教師は、日々、このような問いに向き合っています。
では、教師とはどのような存在でしょうか。

教師とは、教育の「専門家」であると同時に、授業実践の「職人」でもある。

教育学者、佐藤学は、教師のこうした2面性について、以下のように述べています[1]

「洗練された知識と理論に精通し、知性的な『省察』や『判断』を行う」のが専門家である。
「経験によって培われた洗練された技と知恵によって実践を遂行する」のが職人である。

このどちらか一方の性格だけでは教師はその仕事を全うできないと佐藤氏はいいます。

こうした特徴は、分野を「教育」から「ビジネス」に置き換えれば、そのまま、ビジネスパーソン、特にリーダーの特質にぴったり合致するのではないでしょうか。

ならば、ビジネスシーンにおける「指導」に有益なナレッジは、教育現場で用いられている「教育方法」から抽出できるのではないかと考えることもできます。

そこで、ここでは、以下のような仮説を立ててみたいと思います。

教育現場でしばしば用いられる、「“教えない”ことによって教える」という指導方法は、ビジネスシーンにおいても有益である

話を進めましょう。

「“教えない”ことによって教える」とはどういうことか

では、「“教えない”ことによって教える」とはどのようなことをいうのでしょうか。
そのことを端的にあらわしている授業実践をみてみましょう。

~“教えない”授業実践~

小学校5年生の国語科の時間です。
学習項目は、漢字の成り立ちを考えること。

授業では、「鳩」という漢字が、どのようにしてできたのか、子どもたちに推測させています。
核心部分を抜き書きしてみましょう[2]

教師:この字は多分知ってると思うけどな。読めるかな。
子ども:はと。
教師:ああ。わかったね。うん。
子ども:鳥が九匹や。
教師:うん? 何て言った?
梅谷:鳥が九匹。
教師:そういう意味で「鳩」になったのでしょうか。
子ども:違う。
教師:どうして「鳩」と言う字がこんな字になったんかなあ。
子ども:九というのがさ(つぶやく)
教師:みんなこちら(九)に注目しとるね。こちら(鳥)は意味わかってる?
子ども:鳥。
教師:鳥だもんね
   (中略)
教師:…その九という字とこの鳥と合わせてどうして鳩になるの?
   (中略)
教師:なんとか一所懸命意味を作ろうとみんなしているな。実はまったく意味を考えないでください
子ども:ええっ。意味を考えないって。
教師:むずかしいなぁ。なんて読むの、これは。
子ども:はと。
教師:うううん。こっち(九)だけ。
子ども:きゅう。
教師:ほかになんて読む?
子ども:く。
元紀:くっくっくっくっくっ。
教師:そう。そうなんです。
子ども:なんやそれぇ。そんなん!(笑い)
教師:そういうふうに作ったんや、中国の人が。
子ども:(口ぐちに)くっくっくって鳴くで? そんなん!

こうして子どもたちはついに「鳩」のしくみにたどり着きます。
音を表す部分「九」と意味を表す部分「鳥」でできているのだと。
そう気づいたときの子どもたちの様子はどうでしょうか。
いきいきと反応し、感嘆してるのがわかりますね。

~“教えない”ことの有益性~

では、“教えない”ことにはどのような効果があるのでしょうか。

まず、子どもたちが主体的に学習に関わっていくという点が挙げられます。
上の授業で、教師がはじめから「鳩」の成り立ちを教えていたらどうでしょうか。
それでも子どもたちは、「鳩」という漢字がどうやってできたのか、その知識を得ることはできます。でも、それは一方的な「伝授」にすぎず、上の授業でみられるような心の動きは生じなかったのではないでしょうか。
自分たちの力によって、あることに気づき、その喜びを経験することは、学習に対するモティベーションを高め、その面白さがより深い学びへと子どもたちをいざないます。

次に、「発想の転換」です。
子どもたちの自由な発想が「くっくっくっくっくっ」という発見につながりました。これは、やや大仰にいえば、知性に頼りがちな授業からのパラダイムシフトです。
知性が優位な人だけがクラスを引っ張るのではなく、発想の豊かな人もクラスに貢献できるということの証明が、「くっくっくっくっくっ」でした。

そして、最後に、教師と子どもたちの信頼関係が強固になるということです。
授業のすべてをご紹介できないのが残念ですが、上の引用部分からだけでも、教師の力量は明らかです。
教師は個々の子どもたちの発言に速やかに反応し対応しつつ、授業の流れを俯瞰して、要所要所で必要な言葉を、過不足なく子どもたちに投げかけています。
学ぶ主体はあくまで子どもたちであるという教師の信念に揺らぎはみられません。
教師はその学びを生じさせる装置を巧妙に仕掛けていきます。

このような教師であれば、子どもたちは、自分たちのありのままを受け入れてくれ、自分たちの成長を促してくれ、その成長を喜んでくれる存在として教師を捉えるのではないでしょうか。

逆にいうと、このような信頼関係がなければ、教育は成立しません。
信頼できない教師がどんなに端正な授業を計画しても、どんなに立派なことを言ったとしても、それは子どもたちの心に響かないからです。

いかがでしょうか。
以上のようなことは、ビジネスシーンにもあてはまるでしょうか。

ミスに遭遇したとき、どうするか

人間はミスを犯す生き物です。
ミスは時に大きな危険や損害をひき起こします。
でも、それは同時に、学びのチャンスでもあります。

語学学習では、ミスは避けられないものです。
では、学習者がミスを犯したとき、教師はどのように対処しているのでしょうか。

~「“教えない”という教え方」を具現している書物~

筆者が駆け出しの語学教師だったころに大きな影響を受けた本があります。
『外国語の教え方―学習者中心のアプローチ―』、著者は「実践的英語教育法の世界的権威」と称された、故アール・W・スティービックです。

タイトルだけみると、まるでハウツー物のようですが、中身はその正反対。
もしかしたら、邦題をつけた人は、タイトルと中身のパラドックスを狙ったのかとさえ思うほどです。

今回、久しぶりにこの本を読み返して思うのは、年月を経ても内容が全く古びていないこと、そして、この本自体が「“教えない”という教え方」を具現しているということです。

教師とはどのような存在か、学習者は教師をどう見ているか、どのようなときにどのような方法があるか―著者は考えるための材料やヒントを惜しみなく与えています。
でも、読者は常に内省を促され、自分自身の頭と経験によって答えを見出すように求められます。

さて、著者はこの本の中で、学習者のミスに遭遇したとき教師がとるべき方法について、どのように書いているでしょうか。

~ミスを正すための選択肢~

著者はいくつかの選択肢を示しています[3]

まず、学習者の言語能力が深まらない方法として挙げられているのは、以下のようなやり方です。

<正しい発話をしてリピートさせる>
<間違った単語を指摘して訂正する>

このような訂正のし方で学習者が正しく言い直すことができたとしても、学習者は自分のしたことについて、またその理由について、時間をかけてじっくり考えることがありません。
それが問題なのです。

次に、それより緻密な方法として提示されているのが以下のようなやり方です。

<間違った発話の最初の単語だけを「〇〇〇?」と聞き返す>
<身振りや顔の表情で誤りのあることを示すだけで、どこが間違っているかは明示しない>

これらの方法は、上に挙げた方法に比べてより多くの時間が必要になったり、授業の流れが滞ったりするおそれがあります。
でも、学習者自身が問題のありかを考え、正しい答えを模索するという点が重要な意味をもちます。

そして、一番、深い学びを引き出方法として示されているのが、以下のようなものです。

<学習者が誤りを犯さなかったかのように、口調を変えないで、ただ、「こう言ったの?」などと言うにとどめる>

この方法では、教師との会話に熱中しているときにも、学習者は常に文法に留意し、自分の発話が正しいかどうか内省し続ける必要があります。
そのため、このような方法で得られ強化された学習者のスキルは汎用性をもち、将来、教師のもとを離れた後も有益なものになり得るのです。

ただし、「どれが良くてどれが悪いか、などと言うつもりは毛頭ありません」[3]と、著者はあくまでそのスタンスを崩しません。
これらの方法にはそれぞれ長所と短所があり、どの方法を用いるかは、教師がその時々に応じて、授業の様子や学習者の心的ストレスなどを考慮しながら選択すべきだというのです。

以上のことをビジネスシーンに置き換えると、どうなるでしょうか。
これはビジネスシーンにも通用する考え方でしょうか。

仮説は正しいか

「君たちは評論家じゃないんだから!」

何度、言われたことでしょう。
顔を合わせる度といってもいいほどです。

大学のゼミ担当教員は型破りな人でした。
40年以上前のこととはいえ、授業中にタバコを手放さず、「君たちもどうぞ」と学生にも勧める。
紫煙たちこめる中、先生は、学問の基本的態度についていやというほど繰り返しました。

君たちは評論家じゃないんだから、まず、事実を示しなさい。
エビデンスの裏付けがないものは事実とはいえない。
数値に「約」がついたら、それは事実ではなく、意見だ。
意見を述べるときには必ず客観資料で論拠を示すこと!

こうして叩き込まれたことは、その後、40年以上にわたり、職業上、欠かすことのできないストラテジーとして筆者を支え続けています。

このように、徹底的に教え込むことが有益な場合もあります。
何を明示的に教えるのか。
「“教えない”という教え方」は、どのようなこと、どのような相手、どのようなときに有益なのか。
それが有益であるための条件は何か。
それらの判断は重要です。

そのうえで、冒頭の仮説を検証していただきたいと思います。
「“教えない”ことによって教える」という指導方法は、ビジネスシーンにおいても有益でしょうか。

筆者は答えを用意していません。
なぜなら、

その答えは、あなたの頭の中にあるはず

だからです。

【参照】
[1]引用および参考)佐藤学(2009)『教師花伝書』小学館pp.50-51
[2]引用)稲垣忠彦・谷川俊太郎・河合隼雄他編(1991)『授業 実践の批評と創造国語Ⅰ漢字の字源をさぐる』岩波書店pp.118-121
[3]引用および参考)アール・W・スティービック著梅田巌・石井丈夫・北條和明訳(1982)『外国語の教え方―学習者中心のアプローチ―』(“TeachingandLearningLanguages”)サイマル出版局 p.12、pp.17-20

* * *

いかがだっただろうか。部下に教える、教育する、という方法はさまざまだが、専門の教育現場での方法を参考にする、ということは大いに参考になるのではないだろうか。
引用: 識学総研 https://souken.shikigaku.jp/

 

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