自然の風景や営み、伝統の手わざ、郷土の味覚……。“地方”と呼ばれる「ふるさと」には、ビルが立ち並ぶ都会では味わうことのできない「日本ならではの魅力」が山ほどある。そこで、各地を巡り、知られざる日本の魅力を再発見する旅に出てみたい。第1回は山形県庄内平野の小さな川に回帰する鮭の物語をお届けする。
自然の恵みへの感謝
北海道のオホーツク沿岸で獲れる、稀少で美味な高級鮭「めじか」。その多くが、山形県の庄内平野を流れる小さな川で孵化・放流されたものであり、「めじか」を通じて庄内とオホーツクの漁師たちが交流を深めてきたことは前回紹介した。
(詳細は前編 https://serai.jp/tour/36354を参照)
その後編は、イクラの話である。
取材2日目、午前8時半に滝渕川の河口から3kmほど上流にある枡川(ますかわ)鮭漁業生産組合の採捕場を訪ねた。その脇を流れる滝渕川には「ウライ」という鉄製の柵が設置されている。滝渕川を遡上してきた鮭は、どんどんウライの中へ入っていく。そこで行き止まりとなってしまうが、鮭は本能的にさらに遡上しようとする。体長70~80㎝もの大きな魚体を固い鉄柵にぶつけ、水音が周囲に響き渡る。
ウライの中の鮭は10尾くらいずつ大きな網に入れられ、四角い箱に移される。そして待機している組合員は丸い棒で鮭の頭を叩き、気絶させる。初めて見た者は誰もが「ああ、かわいそう」と思う光景である。
動きを止めた鮭はオスとメスに選別される。組合員はその違いを瞬時に判断する。見分けるポイントは、オスに特有の鋭い前歯だ。ちなみにオホーツク海沿岸の定置網にかかる「めじか」は成長途中の鮭なので、オスメスの区別はまだつかないという。
次にメスの腹を開き、卵を採取する。まさにイクラの山である。友人の石沢さんが送ってくれたのは、この採りたてのイクラだった。
メスの鮭を処理するのは組合長の尾形修一郎さんだ。じつに手際がよい。あっという間に箱がいっぱいになる。多い日は3000尾もさばくというが、朝から晩まで立ちっぱなしのきつい作業である。
卵はすぐに受精させ、約1時間、水を吸わせる。その後、採捕場のやや上流にある孵化場へ移す。この時、受精卵の扱いが少しでも雑になると発眼に影響するらしい。これも北海道・北見の漁師から教えられたことである。
孵化場へ移した受精卵は25日ほど養生させる。1ケースに入る卵はおよそ15万粒。孵化場の収容能力は1000万粒である。
卵を入れた箱には常時水が流れている。しかも大量の水である。すべて鳥海山の湧き水を使う。
北見の漁師たちは、この鳥海山の湧き水がじつにうらやましいと言う。井戸水はどこを掘っても11度くらいに安定していて、それが卵や稚魚の養生に最適なのだ。もし、これだけの大量の水を他の手段で確保しようとすると、膨大な費用がかかる。
年が明けると7㎝ほどに成長した稚魚は順次放流される。滝渕川にそそぐその川はまるで農業用水路のように狭い。しかし、ここから2万kmもの回遊が始まるのか思うと、1本の長い長い生命線のように思えてくる。
ちなみに、採取された卵、つまりイクラは半分以上が市販に回される。それが組合の経営基盤となっている。
枡川鮭漁業生産組合では来年、老朽化した孵化場を建て直す予定だ。その設計にも、北見の漁師たちが全面的に協力しているそうだ。
今年、ひとりの研修生が北海道に派遣された。1か月間、彼は鮭の卵の孵化や増殖技術に関する様々なノウハウを学んだ。彼が研修を通して一番心に残ったのは、指導者の次の言葉だったという。
「鮭は小さな体で川を下り、大海を回遊し、ふたたび母なる川に戻ってくる。どんなに優れた技術を学んでも、いつもこの大自然の恵みに感謝しなければならない。それを忘れたら、どんなに技術を磨いても目標は達成できないのです」
取材を終え、帰路につく。鳥海山はすでに初雪をかぶっていた。太陽に輝くその姿は、神の山そのものであった。
■枡川鮭漁業生産組合採捕場
住所/山形県飽海郡遊佐町直世字向田12‐5
TEL/0234・77・2083
※採捕場の見学自由、イクラは1kg3000円で12月中旬まで販売(通販不可)。
文/田中昭三
京都大学文学部卒。編集者を経てフリーに。日本の伝統文化の取材・執筆にあたる。『サライの「日本庭園」完全ガイド』(小学館)、『入江泰吉と歩く大和路仏像巡礼』(ウエッジ)、『江戸東京の庭園散歩』(JTBパブリッシング)ほか。