自然の風景や営み、伝統の手わざ、郷土の味覚……。“地方”と呼ばれる「ふるさと」には、ビルが立ち並ぶ都会では味わうことのできない「日本ならではの魅力」が山ほどある。そこで、各地を巡り、知られざる日本の魅力を再発見する旅に出てみたい。第1回は山形県庄内平野の小さな川に回帰する鮭の物語をお届けする。
送られてきた「完熟イクラ」
山形県北西部に位置する庄内平野は北に鳥海山(ちょうかいさん)、南に月山(がっさん)をひかえ、西は日本海に面した穀倉地帯である。そのほぼ中央部に、山形県内を南北に貫く最上川(もがみがわ)が流れる。
秋が深まったある日、庄内に住む知人の石沢誠さんから電話があった。
「鮭がどんどんのぼってくるぞ。一度見に来ないか?」
石沢さんは地元の精密機械の工場に勤め、仕事の傍ら庄内各地の風景や祭りなどを撮り続けている。早くから鮭の漁法を取材し、近年はビデオを駆使して鮭を追い続けている。
この季節、テレビは山間の川を必死に泳ぐ鮭の姿を北国の風物詩として映しだす。一度は見てみたい、と思っていた自然の営みである。
鮭は海水魚だが、淡水の川をさかのぼり、そこで産卵する。川で成長した稚魚は、やがて海に出て大海を回遊する。そして4年目に、自分が育った川、いわゆる母川(ぼせん)に戻る。太古の昔から繰り返されている神秘な生き物の姿である。
いつ行こうかと逡巡していると、石沢さんが追い打ちをかけるように言った。
「今日、生(なま)のイクラを送るから。最高に美味しいぞー」
翌日、クール宅配便でイクラが届いた。レシピが同封されていて、「完熟イクラ」とある。
採取したばかりのイクラを自分で処理するのは、もちろん経験がない。レシピには、冷水500ccに塩175~190gを溶かすと書いてある。いわゆる飽和塩水である。そんな大量の塩など使ったことがない。その塩水にイクラ1kgをさっと入れる。ちょっと緊張しながら3分間撹拌する。そのあとザルに移し、塩水を切る。その際、イクラを真水につけてはいけない、とレシピに注意書きがあった。
これで完熟イクラのでき上がり。イクラの生食など、もちろん初めてである。見た目にもプリプリしている。スプーンでそっとすくいあげ、10粒ほど口に入れると、思わず「あっ」と声が出そうになった。これは一体なにものだ。噛もうとすると、さらっと歯をすり抜ける。口の中で、プリプリと踊る。やがて風船が割れるようにパチッとつぶれ、新鮮で濃厚な味覚が口中に広がった。
また1杯、そしてまた1杯……。これが「イクラ」なのか。
すぐに庄内へ行くことにした。
「めじか」の故郷を訪ねる
庄内平野の北部、秋田県との県境近くに吹浦(ふくら)という小さな漁村がある。鳥海山の麓から何本もの小さな川が、吹浦の海に流れ込んでいる。
そのひとつ、滝渕川(たきぶちがわ)を目指した。地図を見ると全長15kmにも満たない短い川だ。鮭は最上川のような大河を遡上すると思っていたので、いささか拍子抜けである。
河口から3kmほどの地点に、枡川(ますかわ)鮭漁業生産組合の採捕場がある。事務所の壁には「めじかの故郷」と大書してある。
「めじか? 鮭を見に来たんじゃないの?」と思いながら、組合長の尾形修一郎さんに挨拶する。早速、初歩的な質問をぶつける。
「めじかというのはカジカの一種ですか?」
尾形さんは笑いをこらえながら、真顔で答えてくれた。
「いえ、北海道のオホーツク海沿岸で獲れる鮭のことです。目と口先の間が狭いので『めじか』(目近)と呼ばれています」
「では、この枡川にも『めじか』が遡上するんですね。表の壁に『めじかの故郷』って書いてありますから」
「いいえ、ここでは『めじか』は獲れません」
「はて? いったどういうことですか?」
オホーツク海で獲れる「めじか」
何度か質問を繰り返し、少しずつ事情が飲み込めてきた。
滝渕川に放流された鮭の稚魚は、日本海を経て遠くロシアと北米アラスカに挟まれたベーリング海まで北上する。回遊すること4年、成長した鮭は北海道のオホーツク海沖を泳ぎ宗谷岬沖を越える。この時オホーツク海で強い北風が吹いたりすると、鮭はオホーツク海の沿岸近くを泳ぐ。すると一部の鮭が、沿岸に仕掛けられた定置網にかかるということらしい。
ここで、話は昭和40年代にさかのぼる。尾形さんの祖父の時代である。
定置網に入った鮭の中に、目と口先の間が妙に狭いものがいた。食べてみると、味は格別だったそうだ。地元の人々はいつしか、その鮭の顔つきから「めじか」と呼ぶようになった。
定置網にまぎれ込む「めじか」の数は非常に限られている。やがて、「めじか」は高級魚として取引されるまでになった。
定置網にかからなかった「めじか」は、さらに40~50日かけて日本海を泳ぎ、庄内の母川・滝渕川へと回帰する。その頃になると、口(あご)の部分は成長し長くなっている。つまり、目と口先の間隔が広くなるのだ。こうなると、もはや「めじか」ではない。
先ほど尾形さんが「ここでは『めじか』は獲れません」と言ったのは、そういうことだったのである。
そもそも、オホーツク海で獲れる「めじか」が滝渕川の鮭だと、どうしてわかったのだろうか。
「めじか」が確認された当初、オホーツク海で獲れた「めじか」50尾ほどにタグを付けて海に放したことがある。その結果、秋田県や新潟県の川に戻ったものもいたが、かなりの数が庄内の滝渕川を遡上したのである。
それを知ったオホーツクの漁師がわざわざ庄内を訪れ、「めじか」の稚魚を放流してくれたことに感謝したという。
じつは当時の庄内の関係者は、意外にも「めじか」に無関心だった。昭和40年代は、庄内の滝渕川にも鮭が大量に回帰していた。その処理に追われ、「めじか」への関心はほとんど湧かなかったそうだ。
「めじか」を通じて交流が始まる
では、その後、滝渕川の鮭はどうなったかというと、年々遡上する数が減っていった。最盛期、5万尾くらいだったのが1200尾ほどまでに激減したという。
「獲れた鮭の卵を全部抱え込んでしまったんでしょうね。孵化場の能力を越えてしまい、丈夫な稚魚を育てられなかったのです」と尾形さんは分析する。当時は孵化や養魚に関する高度なノウハウを持っておらず、いわば自然の営みに任せていたのである。
幸い、その後、遡上する鮭は徐々に増えてきたが、孵化場の施設も老朽化し、このままではいつまた激減するかわからないという状況だった。
組合長となった尾形さんは決断を迫られた。尾形さんは、何とか自分たちの力で取り組もうと考え、山形県も対策に乗り出した。しかし、組合員たちの不安はぬぐえなかった。
平成18年、転機が訪れた。
あるきっかけで尾形さんは、オホーツクの北見と宗谷の鮭鱒増殖事業協会を訪れることができた。役員一同が尾形さんを快く迎えてくれた。
そこで尾形さんは、清水の舞台から飛び降りる気持ちで、ある申し出をした。
「鮭の孵化・養殖の技術を私たちに教えください」
北海道では100年を超える鮭の増殖技術が蓄積されている。そのノウハウを学べば回帰する鮭の数は安定し、しかも増加する。当然「めじか」の漁獲量も増えるはずだ。
北見の漁師たちは、尾形さんの申し出を喜んで受け入れた。こうして1000km離れた庄内とオホーツクとを結ぶ「めじか」の交流が始まったのである。
オホーツク側の技術提供は、すでに効果を生みつつある。
例えば、受精させた卵は25日くらいかけて養生し孵化させる。卵が孵化することを「発眼」(はつがん)というが、尾形さんたちが自分たちで養生していた頃の発眼率は、かなり低かった。技術協力を得た現在は、95%にまで高まっている。しかも最終目標は、限りなく100%に近づけることだという。
鮭が母川に戻ってくる回帰率は、現在0.6%くらいである。それを数年後には2%くらいに高めようとしている。
(次回、「稀少な鮭の物語~後編」へ続く)
文/田中昭三
京都大学文学部卒。編集者を経てフリーに。日本の伝統文化の取材・執筆にあたる。『サライの「日本庭園」完全ガイド』(小学館)、『入江泰吉と歩く大和路仏像巡礼』(ウエッジ)、『江戸東京の庭園散歩』(JTBパブリッシング)ほか。