「“表現者”という着地点は見失わなかった」
憧れの美術大学に入学したものの、時代の空気をつかみたいと芸能界入りをセンタク。洋画家とタレントの二足の草わらじ鞋を履いてきたが、常に着地点は“表現者”だった。
←きど・まあこ 昭和36年、愛知県名古屋市生まれ。武蔵野美術大学油絵学科卒業。大学在学中に化粧品会社のキャンペーンガールに選ばれ、芸能界入り。画業ではパブリック・アートなど作品多数。昭和56年に女流画家協会展、平成10年にはVOCA展に入選。
絵を描くのが好きな少女だった。それは中学・高校時代になっても変わらず、絵は一番楽しい“遊び”だった。はっきりと画家になりたいと意識したのは、大学受験の時。美術大学進学を希望する。だが、娘には平凡な幸せを願う両親は猛反対。それを押し切って、武蔵野美術大学油絵学科に入学した。
「憧の美大でしたが、周りは個性的な人ばかりで、入学と同時に居場所を失ってしまいました」
そんな時、雑誌の読者モデルに合格。『カネボウ化粧品キャンペーンガール』にも選ばれる。今という時代の空気を肌で感じたいと、大学を休学して芸能界の仕事を選ぶ。19歳だった。
「これが転機でした。ポスター制作ではアートディレクターや写真家の方々から表現者としての姿勢を学んだ。テレビの南の島のロケでは日本とは違う鮮やかな色彩を目にし、何もかもが新鮮でした」
森羅万象を、画家の目で見ていたのである。女優、歌手、司会と芸能界の仕事は順風満帆だったが、20代半ばで、画家とタレントの両立を前に立ち止まる。
「美大の大先輩である田名網敬一さんに相談すると、“芸能であれアートであれ、表現者にとって発表の場があるということは素晴らしいこと”と助言していただき、迷いが吹っ切れました」
両立を選ぶ。そんな時、パブリック・アートの仕事がくる。『宝塚観光100年記念』のアート・ディレクションだ。以来、東京湾横断道路の海ほたる内の壁画など、公の場で目にする作品も多い。
認知症の義母の介護が始まった10年ほど前から、芸能界の仕事は控えている。人の命は代わりがきかない。弱っていく命に寄り添うことが、今、自分ができるより良いセンタクだと思うからだ。
最近の絵のテーマは“水”や“湿り気のある空間”だ。輪郭がにじんでいるような“ 曖昧のリアル”を追求したいという。
←自宅近くのアトリエで作品を制作する。近年の作品テーマは“水”。湿り気を帯びた空間を追求する。それは不確かなもの―― “ゆめうつつ” や“曖昧のリアル” にも通じる。
←次世代に表現する楽しさを伝えたいと、アートスクールを主宰。見て、触って、感じて、五感を刺激することで子供の想像力を膨らませる。現代の子供は色彩感覚が豊かだという。
●少女時代の絵の思い出や義母に宛てた画家ならではの介護日記など、ここでは書ききれない興味深い話は「ワタシの、センタク。」のウェブサイトで公開中です。
ワタシの、センタク。
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