2017年は明治の文豪・幸田露伴の生誕150周年。その露伴を曾祖父に、作家・幸田文を祖母に、随筆家・青木玉さんを母に持つエッセイスト・青木奈緒さんの著書『幸田家のことば 知る知らぬの種をまく』(小学館)には、親から娘へ、祖母から孫へと伝えられたいろいろな「ことば」が躍動しています。
今回はそんな幸田家に伝わる「知るよろこび」をあらわすことばを2つ、同書からご紹介します。
■1:「知識とは伸びる手、わかるとは結ぶこと」
新たに得た知識が既知の何かと結びつくとき、そこには思いがけない驚きがあり、大きな視野でものごとを眺めるきっかけになる、という意味のことば。このことばは、幸田露伴とその娘・文さんとの会話から生まれたものだそうです。
文さんはあるとき父・露伴に、「本を読んでものがわかるとはどういうこと?」と尋ねます。それに対する露伴の答えは「氷の張るようなもの」でした。
一つ一つの知識が、氷の張るときのように“手”を伸ばし、直線になったのち、あるとき急に結合して輪を作る。すると内側の水面には薄氷がいきわたる。それが“わかる”ということだ。そう露伴は幼い娘に言って聞かせたのだそうです。
「ここから祖母は、知識とは“伸びる手”であり、わかるとは“結ぶこと”だと理解するようになった」と奈緒さんは本書で綴っています。頭の中で知識と知識が結びついたときの、ぱっと眼前が開ける快感は格別です。奈緒さんは続けます。
「いかに小さくとも、新たに得た知識が既知の何かと結びつくとき、そこには思いがけない驚きがあり、普段の地道なとり組みを離れて、スケールの大きな視野で眺めることができる。かすかに感じる運命的なものが、すなわち学ぶ喜びなのではないだろうか」(本書より)
しかし、奈緒さんは「この話を、私が祖母の随筆として読んだのは大人になってからで、より鮮明に覚えているのは母が話して聞かせてくれたときだった」(本書より)と振り返ります。
初めに露伴の胸のうちで弾けたであろう“わかる”ことの鮮烈なよろこびは、文さんから玉さん、そして奈緒さんへと生きたことばで伝えられたのです。
血のつながりにしろ、会社や組織にしろ、サライ世代には「代々受け継ぐ」ことに思いをめぐらした経験のある方も少なくないでしょう。ことばに落とし込むことで、そのことばが媒介となって知らず知らずのうちに受け継がれ、次の代の血や肉になるものもある。そんなことも教えてくれるエピソードです。
■2:「知る知らぬの種をまく」
本書にはもう一つ、“知る”ことに関することばが収められています。
「知る知らぬの種をまく」は、本書のサブタイトルにもなっていることばで、文さんが晩年に連載した『崩れ』という作品に登場した表現です。「人の心の中にはたくさんの種が満ちている。何かのきっかけで芽吹いたならば、縁と思って大切に育てよ」という思いが込められています。
『崩れ』は、崩れる山や暴れ川に心を寄せた文さんが、各地の大規模な崩壊地をたずねて描いた作品。その中で文さんは「心の中は知る知らぬの種が一杯に満ちている」と綴っています。
周囲のものごとから自然に受け取った“種”は一生芽を出さないことも、あるときふいに芽を出すこともある、とした上で「何の種がいつ芽になるか、どう育つのかの筋道は知らないが、ものの種が芽に起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い」というのです。
文さんは日ごろ、何かに心を奪われ強い関心を寄せることを「心の中の種が芽を吹いてしまった」と言い表していたといいます。70代にして山奥へと分け入って取材し、大規模な崩れを目の当たりにした文さんが自然の芽吹きに重ねるほど、人の心の中にある「知ることの種」は力強く切実なもの。
そんな文さんの記憶をたどり、奈緒さんは「知る知らぬの種」への思いを綴ります。
「心に芽吹いた種を大切に育てるということは、自分を大切にすることにつながる。祖母は、取材後に身体はぐったりと疲れていても、好奇心と知識欲は旺盛で、目の力からは精神の充実が感じられた。歳を重ねていても芽吹きは常に新鮮で、そこからが新たなスタートとなる。いくつになっても決して遅くはないことを祖母が教えてくれていた。芽吹きがあるところには、ふり返ってみれば、発芽に至るまでのドラマがあり、発芽の勢いがその先の物語をつむいでいく」(本書より)
“歳を重ねても芽吹きは常に新鮮で、そこからが新たなスタート”とは、嬉しいことばですね。
折しもまもなく桜も開花し、新しい春が到来します。知のよろこびを凝縮した2つのことばを携えて、1年ぶりにめぐってきた始まりの季節を謳歌したいものです。
【参考図書】
『幸田家のことば 知る知らぬの種をまく』
(青木奈緒・著、本体1,500円+税、小学館)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09388502
文/酒寄美智子