はじめに-和田惟政とはどのような人物だったのか
戦国時代の人物には、天下人のように華々しく名を残す者もいれば、歴史の大きな曲がり角で重要な役目を果たしながら、あまり広くは知られていない者もいます。2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する和田惟政(わだ・これまさ、演:玉置孝匡)は、まさに後者の代表だといえるでしょう。
足利義輝が殺害され、室町幕府が崩れかけたとき、惟政は足利義昭(演:尾上右近)を保護し、脱出の道筋を整えました。のちに義昭が将軍として京都へ戻る流れの出発点にいた人物です。さらに高槻城主として信長(演:小栗旬)政権初期の畿内を支え、キリシタン保護にも関わります。
大きな時代の転換点に立ちながら、元亀2年(1571)に戦死。短い生涯ですが、その働きは決して小さくありません。
『豊臣兄弟!』では、足利義昭の奉公衆として描かれます。

和田惟政が生きた時代
和田惟政が生きた16世紀後半は、室町幕府の権威が大きく揺らぎ、京都と畿内の政治秩序が崩れていく時代でした。永禄8年(1565)には13代将軍・足利義輝が暗殺され、幕府は事実上の空白状態に陥ります。
この混乱の中で、各地の大名や有力武士たちは「次の将軍をどう立てるか」「誰と結んで新しい秩序を作るか」を迫られました。惟政は近江甲賀の地侍出身でありながら、この将軍擁立の政治に深く関わり、義昭を支える側近として頭角を現します。
和田惟政の生涯と主な出来事
和田惟政は享禄3年(1530)に生まれ、元亀2年(1571)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
甲賀武士の家に生まれる
和田惟政は、近江国(現在の滋賀県)甲賀郡和田に住んだ和田氏の出身です。甲賀武士五十三家の一つに数えられ、南山六家または山南七家の一つともいわれる土豪でした。
宇多源氏の流れを引く家とされ、近江甲賀という、畿内と東国を結ぶ要地に根ざした在地勢力の一員だったことがわかります。
義昭脱出を助け、幕府再興の出発点をつくる
永禄8年(1565)5月、将軍足利義輝が暗殺されると、その末弟である一乗院覚慶(のちの足利義昭)も幽閉状態に置かれます。
ここで惟政は、六角氏の被官という立場にありながら、幕府再興を目指して覚慶に接近しました。伊賀越え脱出のための道筋を整え、伊賀の仁木長頼らにも連絡を取った上で、同年7月28日、覚慶を自らの館へ迎え入れます。
この働きは、義昭のその後を決定づける重要な一手でした。覚慶は8月5日付で上杉謙信をはじめ諸国の大名に支援を求めていますが、その最初の足場を作ったのが惟政だったのです。

織田信長との接点を探る
惟政は、義昭擁立の実現には強力な後ろ盾が必要だと考え、最大の期待を尾張の織田信長に置きました。
『国史大辞典』(吉川弘文館)によると、六角承禎の指令で、信長と浅井長政との縁談の斡旋にも関わったとされており、惟政が近江・尾張・将軍家の間をつなぐ実務的な役割を果たしていたことがうかがえます。
もっとも、この時点では信長もすぐに動ける状況ではなく、義昭は安全を求めて近江から若狭、さらに越前(現在の福井県東部)へと流浪することになります。惟政もその一行に加わり、義昭が朝倉義景を頼る過程に同行しました。
義昭上洛の実現と高槻城主への抜擢
永禄11年(1568)7月、義昭は岐阜城へ迎えられ、9月には信長に奉じられて京都へ入ります。こうして室町幕府は再興されました。

惟政にとっても、ここが大きな転機です。翌永禄12年(1569)から元亀元年(1570)ごろにかけて、摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)高槻城主となり、島上・島下二郡の支配を管轄する立場に置かれました。
さらに、明智光秀、木下秀吉らとともに、信長の京都行政を支える役割も担ったとされます。もちろん「都の総督」とまでいうのは誇張ですが、少なくとも信長政権初期の畿内統治に食い込んだ人物であったことは確かです。
キリシタン保護とフロイス帰京の周旋
惟政のもう一つの顔が、キリシタン保護者としての一面です。
惟政自身は禅宗を信じていたとされますが、キリスト教に対しては比較的寛容でした。永禄12年(1569)には、高山ダリヨ(高山右近の父)の紹介で宣教師ルイス・フロイスを知り、信長に上申してフロイスの帰京を取り計らったと伝えられます。
イエズス会側は惟政を「キリシタンの保護者であり父であった」と高く評価しており、戦国武将の中でも国際宗教に一定の理解を示した早い例の一つといえるでしょう。
本願寺への接近と、追い詰められた畿内支配
しかし、惟政の置かれた立場は決して安定したものではありませんでした。
元亀2年(1571)2月、惟政は本願寺門跡・顕如光佐への接触を試みますが、これは拒絶されたといいます。前年から信長と本願寺の関係は険悪化しており、惟政は三好三人衆、一向宗門徒、池田氏らに囲まれるような重圧の中で苦しんでいました。
特に隣接する池田知正との不和は深刻でした。高槻という地は、幕府再興の前線であると同時に、敵に囲まれた危険な境界でもあったのです。
郡山合戦で戦死
そして元亀2年(1571)8月28日、惟政は摂津郡山(現在の大阪府茨木市付近)の戦いで池田知正と戦い、敗れて戦死しました。
享年は42歳とされます。義昭を救い、幕府再興の橋渡しをし、信長政権初期の高槻を支えた人物としては、あまりにも早い最期でした。
その後、高槻には三淵藤英(みつぶち・ふじひで)が入ることになります。
まとめ
和田惟政は、近江甲賀の地侍から出発しながら、将軍足利義昭の脱出を助け、室町幕府再興の最初の一歩を支えた人物でした。しかもその後は高槻城主として畿内の最前線に立ち、信長政権初期の京都支配にも関わり、さらにはキリシタン保護という当時としては先進的な側面まで見せています。
大きな戦国大名の陰に隠れがちですが、もし惟政がいなければ、義昭の再起の道筋はもっと細く、危ういものだったかもしれません。
華々しい天下取りの主役ではないけれど、歴史の転換点で「次の時代への橋」を架けた一人として、和田惟政はもっと注目されていい武将でしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











