文・写真/市川美奈子(海外書き人クラブ/台湾在住ライター)
台北の街を歩いていると、ふと足を止めてしまう建物に出会うことがある。
温かみと重厚感を醸し出す赤レンガ建築。
瓦屋根、木製の引き戸、左右対称の窓が懐かしさを感じさせる日本家屋。
築100年を超えるこれらの建物が、台北の街並みに静かに彩りを添えている。


これらの建物は、「老房子(らおふぁんず)」と称されるものだ。
老房子とは「古い建物」のことを指す。一般的に築年数30年以上の建物が老房子と定義されているが、街中で目をひく建物の中には、築100年をゆうに超えているものもある。
老房子は高層ビルの足元や交通の要衝に残されていることもある。台北市民の生活圏に違和感なく溶け込み、地域の賑わい創出拠点になっていることも多い。
なぜ、老房子が地域の賑わいを牽引しているのか。
その背景には、台北市政府が実施している「老房子文化運動」がある。

根底にあるのは「台湾アイデンティティ」
老房子文化運動とは、2013年から台北市政府が実施している「歴史的な建造物の修復と再利用を促進する官民連携プロジェクト」だ。
時代の変遷と共に居住者や管理者がいなくなってしまった老房子に民間の資本と創造力を注入し、新たな命を吹き込む取り組みである。
台北市が入札を実施して老房子の落札者を決定し、落札した事業者は老房子の修復作業と、修復後の運営を行う。
なぜ、このような運動が始まったのか。それには台湾の歴史が大きく関係している。
1987年、台湾では38年間続いた戒厳令が解除され、1990年代には都市開発が急速に進んだ。開発の過程では、歴史的建築が次々と失われていった。
台湾において、老房子は長らく「古く不便で、取り壊されるべき存在」と考えられてきた。しかし一方で、それらは多元的な台湾の歴史を後世に伝える貴重な文化遺産であり、ある意味で台湾のアイデンティティでもあったのだ。
台湾では2000年前後に、人々の台湾アイデンティティが発揚されるような出来事が相次いで起こっている。1996年には、台湾史上初となる直接選挙での総統選が行われ、中国国民党の李登輝氏が総統に就任した。その4年後の2000年には、1986年に創立された台湾初の野党である民主進歩党の陳水扁氏が総統選で勝利し、台湾史上初となる政権交代が実現した。
時代の荒波に翻弄されながらも、都市の記憶を宿し続け、歴史の中にあり続けた老房子。いつしか台湾のアイデンティティを象徴する存在として、「取り壊されるべきもの」から「受け継がれるべきもの」へと変化していった。
老房子を、単に保存するだけでなく「使い続ける」ことで、街の記憶を次世代へと受け継いでいく。その結果、台北市内の至るところに、老房子を主役とした個性的な街並みが残され、人が集まる場となっていった。
老房子文化運動の現在地
2013年から始まったこのプロジェクトによって、これまでに29件の老房子の落札者が決定した。現在修復中の物件を除く25件が観光施設や商業施設として運営されており、計画は順調に推移しているといえるだろう。
だが老房子文化運動計画はずっと順調な道のりを歩んできたわけではない。老房子文化運動計画には「1.0」と「2.0」の2つの段階がある。「2.0」は、「1.0」の改善点をふまえて2017年に改正されたものだ。
改正前の「1.0」では、老房子の落札者は、修復期間中も老房子の賃借料を台北市政府に支払う必要があった。しかし老房子は落札時点ではボロボロの状態であることが多く、修復には年単位の時間が必要となる場合もある。
このため「2.0」では、修復や日常管理・維持にかかった費用を賃借料から差し引くことができる制度に変更された。また、「1.0」では老房子は主にクリエイティブ産業での活用が想定されていたが、「2.0」では、カフェ・民宿・ショップ・アートスペースなど、多様な活用が可能になった。この改正を行ったことで、民間事業者の参入が加速したといえる。
居酒屋におでん屋 生まれ変わった旧官舎
老房子文化運動の一例を紹介したい。「榕錦時光(ロンジンシーグァン)生活園区」だ。2022年にオープンしたこの施設は、日本統治時代の台北刑務所官舎を改修したもの。懐かしい日本家屋が軒を並べ、飲食店を中心としたさまざまなテナントが入っている。

テナントのひとつである「居餃屋」は、台湾のクラフトビールメーカーである臺虎精釀(TAIHU BREWING)が運営する居酒屋だ。
店内の壁には趣のあるポスターが貼られ、カウンターには日本酒の瓶が並ぶ。古き良き日本の情緒に満ちている店内で、台湾のビールとおつまみを味わえる。多様な歴史と文化に満ちた台湾そのものを表しているかのようだ。


台北MRT(地下鉄)の圓山(まるやま)駅に隣接する「円山駅(まるやまえき)」も、老房子文化運動で再生した一例だ。

こちらは1900年ごろ、台湾総督府鉄道淡水線円山駅の駅員宿舎として建設された。2024年に老房子文化運動による修復が行われ、現在はおでん屋として運営されている。平日でも1時間以上の待ち時間が発生するほどの人気店だ。


百年の時を宿す台北の老房子は、時代とともにその姿を変えながら、今日も人々と共に在る。
これからも人々の営みと想いを紡いでいくことだろう。
【交通アクセス】
榕錦時光生活園区
台北市大安区金華街167号
https://www.rongjinchoice.com/
MRT淡水信義線または中和新蘆線「東門」駅下車、3番出口から徒歩10分。
居餃屋
台北市大安区金華街155号(榕錦時光生活園区施設内)
https://www.instagram.com/taihu.gyozabar.dongmen/
MRT淡水信義線または中和新蘆線「東門」駅下車、3番出口から徒歩10分。
円山駅
台湾台北市大同区酒泉街9巷13号
https://www.instagram.com/sumikou_taipei/
MRT淡水信義線「圓山」駅下車、2番出口向かい。
※淡水線時代の駅名は「円山駅」ですが、MRTの駅名は「圓山駅」であり、おでん屋の店名は淡水線時代の駅名と同じ「円山駅」です。
文・写真/市川美奈子 (台湾在住ライター)
民間企業、外務省外郭団体などの勤務を経て、2023年4月から行政機関の職員として台湾に駐在。早稲田大学第一文学部卒。台湾の奥深さに魅了され、台湾各地のさまざまな街を旅行&取材。訪れた先々で、その土地ならではの美食を堪能するのが楽しみ。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)の会員。











