はじめに―斎藤義龍とはどのような人物だったのか
斎藤義龍(さいとう・よしたつ)は、美濃国(現在の岐阜県)を治めた戦国大名です。父は「美濃のマムシ」と称された斎藤道三(さいとう・どうさん)。親殺しをしているゆえ、義龍は長く「暗君」「逆臣」のように語られてきました。
しかし、近年の研究や史料を丹念に見ていくと、その姿は大きく変わります。義龍は、父・道三の後を継ぎ、美濃を戦国大名として安定させた統治者であり、織田信長の侵攻を生前は一貫して防ぎ切った人物でもありました。
本記事では、「父殺し」という一点に集約されがちな斎藤義龍の生涯を、時代背景とともに丁寧にたどっていきます。

斎藤義龍が生きた時代
斎藤義龍が生きた16世紀半ばは、守護大名の権威が失われ、実力によって国を治める「戦国大名」が各地に成立していく時代でした。
美濃国では、土岐氏の衰退を背景に、下克上によって台頭した斎藤道三が実権を掌握します。一方、隣国尾張では、織田信秀、そしてその子・信長が勢力を伸ばしつつありました。
こうした中で義龍は、父の革新性を受け継ぎつつも、家中秩序と統治の安定を重視する方向へ舵を切った大名として登場します。
斎藤義龍の生涯と主な出来事
斎藤義龍は大永7年(1527)に生まれ、永禄4年(1561)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
誕生と出自をめぐる複雑さ
斎藤義龍は、大永7年(1527)に生まれました。通称は新九郎。初名は利尚(としひさ)、のちに范可(はんか)、一時的に高政とも称しています。
父は斎藤道三ですが、義龍の出生については早くから諸説がありました。
土岐頼芸(とき・よりなり)の愛妾・三芳野(みよしの、深芳野と書く場合も)が、頼芸の子を身ごもったまま道三に嫁ぎ、その子が義龍であったという説が知られています。一方で、稲葉良通(一鉄)の妹を母とする説もあります。
いずれにせよ、この出自をめぐる疑念が、後の父子不和の遠因となったと考えられてきました。
家督相続と父・道三との決裂
天文17年(1548)、道三は義龍に稲葉山井ノ口城を譲り、自らは鷺山城に退きます。表向きは円満な家督継承でしたが、道三が後年、実子である孫四郎を後継に立てようとしたことで事態は一変します。
義龍はこれに強く反発し、弟である孫四郎ら二人を誘殺。父・道三と完全に対立する道を選びました。
長良川の戦い|父を討つ決断
弘治2年(1556)、義龍は長良川河畔で道三と戦い、これを討ち取ります。戦国史の中でも屈指の「父殺し」として知られる出来事です。
しかし、この戦いは、単なる感情的反逆ではありませんでした。家督の正統性をめぐる争いであり、国主としての立場を守るための、苛烈だが現実的な選択でもあったと見ることができます。
この戦いをもって、義龍は名実ともに美濃国主となります。

戦国大名としての統治と評価
義龍は、永禄元年(1558)に治部大輔(じぶだいぶ)に任官し、翌年には将軍相伴衆(しょうばんしゅう)にも列せられています。これは、中央政権からも一定の評価を受けていたことを示しています。
また、美濃国内では宿老制や貫高制を採用し、宗教勢力への統制を進めるなど、戦国大名としての体制整備を進めました。
父・道三の「斬新さ」ばかりが語られがちですが、制度面での成熟は義龍の代に顕著に見られます。
織田信長との対峙と死
義龍は在世中、たびたび織田信長と対峙しましたが、その侵攻をよく防ぎました。信長が美濃を本格的に手中に収めるのは、義龍の死後、子の代になってからのことです。
永禄4年(1561)5月11日、義龍は病により死去。享年35歳の若さでした。法号は雲峯玄竜居士と伝えられています。
まとめ
斎藤義龍は、「父を殺した武将」という一面的な評価に収まりきらない人物です。むしろ、下克上で成り上がった父の国を、戦国大名として持続可能な形に整えた統治者でした。織田信長を生前は美濃に寄せつけなかった事実も、義龍の実力を雄弁に物語っています。
短命ではありましたが、その治世は確かに、美濃国の一時代を支えていました。
父・道三、そして宿敵・信長という強烈な存在に挟まれながらも、独自の足跡を残した斎藤義龍。彼を知ることは、戦国時代を「勝者の歴史」だけでなく、「国を治めた者の歴史」として見ることにつながるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











