文/印南敦史
14歳も年下なので、その全盛期を目の当たりにしたわけではない。だから「赤色エレジー」を筆頭とする代表的な作品も、ずいぶん時を経てから後追いで聴くことになったのだった。
しかしそれでも、あがた森魚という人のことはずっと気になっていた。
初めてリアルタイムで聴いた作品は、1986年に発売された『永遠の遠国の歌』(前年に自主制作盤として出た『永遠の遠国』のダイジェスト版)。冒頭の「いとしの第六惑星」を耳にした瞬間、とても清らかな気持ちになったことを覚えている。
だから関心はどんどん高まっていき、「赤色エレジー」など過去の作品を遡っていったのだ。しかし、こちらがそんなことをしている間にも、本人はタンゴに傾倒していった。その数年前には、ヴァージンVSというニュー・ウェイヴ・バンドをやったりもしていたのに。
したがって、いつしか「この人は、興味を持ったら『やらずにはいられない人』なんだな」と感じるようになっていった。それは私の目から見て、(広義での)アーティストとしての理想的なあり方でもあった。
少なくとも私にとってはそんな不思議な存在だったので、『愛は愛とて何になる』(あがた森魚、今村守之 著 小学館)という書籍が刊行されたと聞けば引きつけられて当然だった。
自らのバックグラウンドや、名曲と呼ばれる数々の作品についてのエピソード、それらが誕生するプロセス、さらには「愛」と「旅」に関する思いなどについての語りを、聞き手である文筆家の今村守之氏がまとめたものである。
いうまでもなく、世代の異なる私にとっては「知らなかったこと」の連続であり、だからとても興味深く読み進めることができた。たとえば件の「赤色エレジー」が誕生したときのことについては、あがた氏の次のような思いが紹介されている。
「北海道から東京に出てきて、音楽でも文学でも何でもいい、自分の感受性を生かせるアーティスティックなことがしたいと思ってました。そういうもやもやっとした気持ちを抱えて毎日を生きていたときに出会ったのが、林静一さんのマンガ『赤色エレジー』の単行本です。アパートで同棲する男の子と女の子との他愛のない物語なんだけど、ぼくには深く感じられるものがあった。それで、誰にも頼まれずに勝手に主題歌をつくってしまった(笑)。それが歌のほうの『赤色エレジー』です」(『風都市伝説』)(本書97〜98ページより)
青春期特有のもやもやとした感情を原動力として、直感的に“響いた”ものを自らの感性によって構築してみた結果、それが名曲と呼ばれるようになったということだ。これは、あがた森魚というアーティストのあり方そのものにもつながる、非常に興味深いエピソードではないだろうか。
しかもさらに心を動かされるのは、図らずもその一曲で時の人となったあがた氏が、驕ったりすることなく、その状況を楽しんでいるようにすら見えることだ。いや、楽しみながら、同時に戦っているというべきか。
たとえばそのころには人気の深夜ワイドショー『11PM』に出演し、大きなインパクトを残してもいる。
あがたは「赤色エレジー」の発売からひと月半ほど経った六月一五日に「若者のアングラアート事情」という特集で、大道芸人らと出演した。長髪、GパンにTシャツ、本人いわく「家にあったズック靴はボロボロだし、下駄なら少しちびていても大丈夫だろうとあまり考えずに履いて行った」ら、司会の大橋巨泉がおもしろがりからかった。「なんでお前、(テレビ局のスタジオに)下駄履いて来るの?」。そんな格好で、あがたはギターを抱え「赤色エレジー」を歌った。(本書99ページより)
その結果、多くのテレビ番組から引っ張りだこになった。「あんなにまでして売れたいものなんでしょうかね」「あれは赤色エレジーではなく黒色エレジーですね」などと失礼なことを生放送でいわれたこともあったそうだ。いまのことばに置き換えれば“イジリ”の対象になってしまったわけだが、「ぶん殴ってやろうかと思った」といいながらも彼は「歌うために出ているんだから、当然歌ったんだよ」と回想している。
「でも嫌いじゃないんだよ、俺。そういう破天荒なものが。非常にマーケティング的ロックンロールかもしれないしさ。その構造自体が、その混沌自体が、僕らの模索した六〇年代から七〇年代だったんだから」(本書101ページより)
――メディアは時代の寵児的な扱いをしたわけですから。
「したし、まぁ、そういう立場、役割を担ったわけですよね」
――だから、ちょっと試してやろうくらいのきついカウンターを放ってきたのでしょうね。
「まさに! だから、いろんな人に道理の通らないことを言ったりするのも、俺の中ではワケがあって、立て板に水みたいに喋れるとは限らない。だから歌うとも言える。多くの作家だってそうだろうけど。逆にそれができたら評論側に回っちゃうだろうから。(本書101ページより)
こうした発言からは、なんでも自分の尺度で(しかも意識的にではなく、感覚的に)解釈しようとするあがた氏の姿勢を感じることができる。そこに、大きく引かれるのだ。
同じことは、なにかと美しく語られがちな1969年の「フォークゲリラ」についての思いにも表れている。
「いや、その大衆の善良性をこそ愛おしく思うし、自分の根元にもそれはある。けれども、心やさしい人ばっかり集まってくるのは嫌なわけです。そんな善良な市民代表になったってしょうがないという。やっぱり、もっとあぶれてる奴もいるじゃない? ダメな奴も、イジメ、疎外にあっている奴もいるじゃない? そういう奴も入ってきて、乱れないとダメなんだ」(本書83ページより)
これは、いまの時代にも通用する発言だ。そして、後ろの世代である私を強く共感させるものでもあっただけに、最後に引用しておきたい。
文/印南敦史 作家、書評家、編集者。株式会社アンビエンス代表取締役。1962年東京生まれ。音楽雑誌の編集長を経て独立。複数のウェブ媒体で書評欄を担当。著書に『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『書評の仕事』(ワニブックスPLUS新書)などがある。新刊は『「書くのが苦手」な人のための文章術』( PHP研究所)。2020年6月、「日本一ネット」から「書評執筆数日本一」と認定される。