ようこそ、“好芸家”の世界へ。
「古典芸能は格式が高くてむずかしそう……」そんな思いを持った方が多いのではないだろうか。それは古典芸能そのものが持つ独特の魅力が、みなさんに伝わりきっていないからである。この連載は、明日誰かに思わず話したくなるような、古典芸能の力・技・術(すべ)などの「魅力」や「見かた」にみなさんをめぐり合わせる、そんな使命をもって綴っていこうと思う。
さあ、あなたも好事家ならぬ“好芸家”の世界へ一歩を踏み出そう。
第3回目は落語の世界、客寄せの太鼓が鳴り、噺家たちの名前が書かれた幟(のぼり)が並ぶ華やかな場所、「寄席」の世界をご紹介しよう。
文/ムトウ・タロー
落語家は見たことあるけど、落語は聞いたことがない
落語家を見たことがない、などという人はあまりいないだろう。
ある時はバラエティに、ある時は映画やドラマに、またある時はワイドショーのコメンテーターに、そしてある時は、日曜夕方テレビの前に8人揃って登場して馬鹿なことを言って笑わせて……と彼らは様々なところで活躍している。
では、落語を見たことがない、という人はどれだけいるだろうか。彼らの本当の仕事を見たことがないとなると、もしかしたらその数は増えてしまうかもしれない。落語を見る機会というのは、実は決して多くはない。
今メディアの中で落語を見せる番組がどれほどあるだろうか。正直、多いとは言えない。それでもこれまで、時代の寵児ともいえる落語家が彗星の如く現れて、世間を席巻してきた。落語の歴史は常にその繰り返しである。
そしてそのたびに、人々はある場所へと足を運んだ。そう、寄席である。
「寄席」という言葉、聞いたことがある人も多いかと思うが、具体的には何なのか。平たく言えば「演芸場」の通称である。演芸場を、その昔「寄せ場」と呼んでいたが、それが「寄せ」と省略され、今のような「寄席」になった。
「寄席」は落語が見ることのできる場所、という印象が強いが、実際には落語を始め、講談・浪曲・漫才・太神楽・紙切り・マジックなどなど、数多ある演芸を見せる場所である。また、かつて神田にあった「本牧亭」は講談の定席(常設の寄席)、浅草にある「木馬亭」は浪曲の定席、といったように個々の演芸によっては専門の寄席を持っている。
寄席にしかない空気
今、実はあえて寄席に行かずとも、落語を聞くことはできる。
たとえば落語会、「今一番チケットが取れない」などという枕詞のついた落語家の独演会は確かにそう簡単に行くのは難しいかもしれないが、町の公民館やホールなどで落語会が開催されていれば、落語を生で聞くことができる。最近では飲食店などで落語会が開催されることも多く、気軽に聞けるようにもなってきている。
また生でなくとも、歴史上数多くの名人がその技を録音で残し、CDになっている場合が多い。直接買わずとも、図書館などにも揃っていたりするので、興味があれば借りて聞いてみるのもよいだろう。 しかし私は敢えて伝えたい。是非とも寄席に足を運んでほしい、と。そこには落語を聞くという楽しみ以上のものが存在しているからである。
今日も寄席の代表格として存在している新宿「末広亭」の席亭(主人、責任者)として長きにわたり落語を見てきた北村銀太郎(1890~1983)の次の言葉にも、それはよく表れている。
「落語というのはまったくの大衆を前にしての芸なんだからね、そりゃあ寄席でやる方が難しい。ホールのお客は初めっからそれを聞きにきてる人なんだから、多少のことがあっても聞いてもらえるだろうけど、寄席のお客はそうじゃない、暇だから入ってきた、通りすがりにちょっとのぞいてみたって人が多い。義理だの、前もっての知識だの、なにもない。だから、そのぶん正直なんだ。つまらない落語なら退屈して堂々とあくびをするし、席も立ってしまう。噺家の方からすれば、それが一番怖いわけだよ。彼ら、お客に蹴られるのを一番恐れるからね。」(富田均『聞書き・寄席末広亭』)
そう、寄席は噺家にとって常に真剣勝負の場である。一日一日のその出番でどれだけの人を話の世界に引き込むか、どれだけ人を笑わせ、泣かせることができるか。常に試されている場所なのである。
個別の落語会に足を運ぶお客様は特定の落語家の落語を聞きに来ている。それに対して寄席は仮にお目当ての落語家がいたとしても、その人のみの舞台ではない。他の幾人もの芸人の芸を目にする。その時に初めて見た芸人が新たなお気に入りになってくれるかもしれない。だからこそ、落語家たちもその日に己が出すことのできる、ありったけの芸の技を見せつけにくる。修行の場は、さながらお客との真剣勝負の場に変貌する。
楽しめなかったのは、決してあなたのせいではない
そして寄席に足を運ぶ私たち観客も、常にその緊張感を体験することができる。私たちが噺に関する基礎知識を持って入らなければいけない場ではない。前もって何も知らなくても、演者たちと対峙する、我々の存在もまた、高座に上がっている彼らにとっては修行相手なのである。それが寄席の醍醐味である。
だから寄席に行こうと思うときには躊躇せずとも好い。もしも楽しめなければ、それはあなたが悪いのではない。極論を言えば、楽しませることのできなかった噺家に責任がある。 長きにわたりその噺家と観客の鍔迫り合いを、寄席は刻み込んでいる。だからこそ木戸口(寄席の入口)をまたいだ時に感じる異世界の雰囲気に、私たちは魅了されるのである。
文/ムトウ・タロー
文化芸術コラムニスト、東京藝術大学大学院で日本美学を専攻。これまで『ミセス』(文化出版局)で古典芸能コラムを連載、数多くの古典芸能関係者にインタビューを行う。