注文してから、蕎麦が運ばれてくるまでのひとときは、「小さなモラトリアム」だ。何もしなくていい。何もできない。何かしてはいけない。
仕事や日常のわずらわしいあれこれを、ひとまず棚上げにして、ぼーっとする。壁にかけられた品書きを眺めたり、他の客が蕎麦を手繰る様子を、見るともなく見る。左党は、蕎麦前のお銚子を、一本傾けることを楽しみにしていたりする。
ひとのことはわからないが、僕には時々、モラトリアムの時間が必要だ。電車に乗ったとき、映画館の座席に体を沈めたとき、蕎麦屋に入ったとき。
何もしなくていいひとときというのは、肩の力を抜いてほっとできる呼気の時間。かけがえのないリセットタイムだ。この一瞬のために蕎麦屋の暖簾をくぐるといっても、決して大げさではない。
鉄道ファンで時刻表を見るのが好きな人がいる。地図が好きな人は等高線と記号で埋め尽くされた二次元の世界をうっとり眺める。僕はそれにちょっと似ている。蕎麦屋の品書きを眺めるのが好きなのだ。「蕎麦屋の品書きファン」といってもいい。
蕎麦屋の品書きからは、様々なことが読み取れる。それは店の履歴書であり、家系図であり、詳細なロードマップだ。
どんなことがわかるのか、品書きの見方の一例をあげてみたい。まずメニューの最初にどの献立が書いてあるか、これはとても重要だ。もり蕎麦なのか、ざる蕎麦なのか。
この場合、もり蕎麦はせいろと同一と考える。 一般的にいって、ざる蕎麦は蕎麦の上に刻み海苔がパラパラとかけてあるもの。もり蕎麦は何もかかっていないシンプルな蕎麦だ。品書きの最初にざる蕎麦が書いてある店は、メニューの順位からいって、より安価なもり蕎麦がない店ということになる。
蕎麦は、海苔のかかっていない、もり蕎麦が基本だ。刻み海苔をかけてしまったら、繊細な蕎麦の香りと味は、ほとんどわからなくなる。こんなことも理解していない店は、僕は申し訳ないが、即刻、退店することにしている。失敬・・・。
その反対に、最も安いもり蕎麦に、いくつかのバリエーションがある店もある。蕎麦の産地別に打ち分けて供したり、あるいは、もり、十割、粗挽きなどとラインナップされていたりする。これはうれしい。店主の蕎麦にかける意気込みが、この一事から伝わってくる。
しかし意気込みはあるのだが、蕎麦がおいしくないことは、しばしば・・・いや、たまにはある。それはそれで仕方ない。店主の心意気をよしとして、そんなときは十割と粗挽きを注文してみたりする。
品書き拝見趣味について書き始めると、なかなか止まらなくて困るのだが、品書きを見るポイントを、もうひとつだけ書いておきたい。
それは大盛りがあるか、ないかだ。大盛りは不可という店ならば、僕はちょっとうれしくなる。
出来の良い蕎麦ほど、食味のピークは高く、落ちるのが早い。大盛りを食べ終わるころには、最終部分の蕎麦は、完全に食べごろを逃している。蕎麦を倍量楽しみたかったら、普通盛りを追加で頼むのが正解だろう。
大盛りを頼んだ客は、最後の一口、うまいとはいえない蕎麦を食べて、「こんなものかな」と思って店を出るかもしれない。次にまた、この店を訪れたいという気持ちは、何割か削がれるに違いない。これは蕎麦屋にとっても、客にとっても、幸福な状態とはいえない。
品書きに込められた蕎麦屋のメッセージをどれだけ受け止められるか。それはほかでもない、客自身の蕎麦の知識の深さを問われていることでもある。蕎麦を待つ間に品書きを眺めて見えてくるのは、客本人の内なる蕎麦世界の有様なのだ。
いろいろ理屈をいっているうちに、これはこれは、うまそうな蕎麦がきた。
文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)などがある。