文・写真/御影実(オーストリア在住ライター/海外書き人クラブ)
中欧の大国として、ハプスブルク家の下で栄華を極めたオーストリア。名君とたたえられた皇帝フランツ・ヨーゼフの時代には、世界中に探検隊が派遣され、各地の地理や自然の研究が国力増強の礎となりました。その中でも、苛酷な旅路がドラマチックな結末を辿り、数々の英雄を生み出した北極探検隊は、後世に語り継がれています。
北極探検隊の結成
人類が北極点に到達したのは20世紀初頭のことですが、19世紀には既に、最北点到達記録のためだけではなく、航路開拓、科学研究や地図作成などの実用的な目的もあり、世界各国で北極探検隊が結成され、調査が進められていました。
ハプスブルク家のもと栄華を誇っていたオーストリア・ハンガリー帝国も、この北極圏探査競争に加わります。ハンス・ヴィルチェック男爵の資金により建造された、北極探査船「テゲトフ提督号」は、24人の乗組員と8頭の犬ぞり犬を乗せ、1872年6月13日に未知なる探検の旅に出航します。
探検隊のリーダーは、船長のカール・ヴァイプレヒトと探検隊長のユリウス・ペイエール。ヴァイプレヒトは軍人で地球物理学者、ペイエールは北極やアルプスの研究者で地図製作者で軍人で画家という多才な人物。この才能の豊かさが、探検隊の大きな強みとなります。乗組員は、当時のオーストリア・ハンガリー帝国の規模を象徴するように、現在のクロアチア、イタリア、ハンガリー、チェコ、オーストリアの出身者が含まれていました。
流氷に閉ざされた探査船
しかし、北極探査の旅は難航します。「テゲトフ提督号」は最初の冬に氷の塊に捕まり、流氷と共になすすべもなく、北へと流されていきます。身動きが取れない逆境の中でも、探検隊は船を基地として、精力的に探査や研究調査、地図作成を行い、翌年夏には、島や諸島を次々と発見していきます。その中でも最も有名なのが、皇帝の名を取って付けられた「フランツ・ヨーゼフ・ランド」です。現在はロシア領ですが、ロシア語読みで命名当時の名が使われています。また、最初に発見した島には、スポンサーのヴィルチェック男爵の名がつけられました。
船は夏も流氷に閉じ込められたまま、二度目の冬を迎えます。探検隊長のペイエールは、このピンチをチャンスに変えるべく、春になると二人の仲間と共に、そりで北に向かいました。17日後の4月12日、人類が到達した最北点(緯度81.50度)に到達し、50年前の記録を塗り替えます(実際は、その3年前に人知れず踏破されていたという説も)。この時の移動距離は800キロを超えていたと言われています。
前代未聞の苛酷な道行き
一方「テゲトフ提督号」では、三度目の越冬には備蓄が足りないと判断し、探検隊は船を捨て、危険な徒歩での帰国を決断します。ペイエールの帰船を待って、1874年5月20日、5つのボートに食料と資料を積み、そりに載せて南へ、前代未聞の徒歩移動が始まりました。
しかし、この道行きは苛酷なものでした。歩いても歩いてもいっこうに目的地に着かないまま歩き続けて2か月。7月15日に、隊員たちは、信じがたい光景を目の当たりにします。
なんと、探検隊の目の前には、8週間前に捨てたはずの「テゲトフ提督号」の姿が現れたのです。北に流され続ける流氷の上を南へ移動していたたため、元のところに戻ってきてしまったのです。パニックの中、船に戻って死を選ぼうとした者すらいました。
そんな絶望の中、船長ヴァイプレヒトは聖書を片手に、乗組員に向かって語りかけました。「南へと帰ろう!ここへは二度と戻らない!」という力強い演説は、乗組員を奮い立たせ、再び探検隊は南へと、果てしない徒歩の旅を再開しました。
再出発から1か月間、南へと進み続けた結果、8月14日にはとうとう海へと到達します。ここからボートを漕ぎ続けて6日目、ロシアの漁船に発見され、ノルウェーの港へ運ばれました。こうしてヨーロッパに到着した後は、陸路で移動を重ね、9月25日、まさに2年3か月ぶりに故郷ウィーン北駅に到着します。大歓声と共に迎えられ、25万人が出迎えたとも言われています。
驚くべきことに、この苛酷な3か月間の徒歩の道中では、隊員は一人も失われることはありませんでした。当初24人いた乗組員のうち、亡くなったのは、船を捨てる直前に結核で亡くなった一名のみでした。
メッセージボトルの行方と探検隊の記録
この北極探検隊には、様々なエピソードや後日談が残されています。
・メッセージボトル
船長ヴァイプレヒトは、おそらく生きて故郷に帰ることができない可能性を考えたのでしょう。「二度と戻らない!」の演説直後、記録を記した手紙をボトルに入れ、かすかな希望と共に海に投げ入れました。この瓶は104年後の1878年に、ロシア人によって発見され、現在はウィーンの文書館で保管されています。探検隊の執念が、時を超えて故郷に届けられたのでした。
・現在に残る北極探検隊の名残
北極探検隊は帰国後英雄として迎えられ、ウィーンやオーストリア各地には、ヴァイプレヒトやペイエールの名が通りの名前に付けられ、「北極通り」「北極レストラン」なども作られました。それだけでなく、最近では、2013年の火星探査研究基地にも二人の名がつけられ、今でもオーストリアの探検家の父として親しまれています。
また、意外なところにも北極探検隊の名は受け継がれています。2015年に新しくウィーン、シェーンブルン動物園内にオープンしたホッキョクグマ舎には、「フランツ・ヨーゼフ・ランド」の名がつけられ、子供たちの人気スポットとなっています。ここでは、シロクマや北極圏の生き物の生態だけでなく、この北極探検隊についての展示にも十分なスペースが割かれ、探検隊の数奇な運命を次世代に伝えています。
この北極探検隊についての最大の展示は、ウィーン軍事史博物館内の海軍の間にあります。画家でもあったペイエール自身の手による、「二度と戻らない!」の演説の場面を描いた巨大な絵画や、テゲトフ号の模型、ペイエールの手記、探検隊の持ち物などが展示され、北極探検隊の偉業を身近に感じることができます。
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科学研究や地図作成、北極探索といった点で功績をあげただけでなく、優れたリーダーシップで困難を乗り越え、無事に帰国を果たしたオーストリアの北極探検隊。彼らの英雄的偉業は現在でも称えられ、次世代の科学研究へとつながる道しるべとなっています。
文・写真/御影実
オーストリア・ウィーン在住フォトライター。世界45カ国を旅し、『るるぶ』『ララチッタ』(JTB出版社)、阪急交通社など、数々の旅行メディアにオーストリアの情報を提供、寄稿。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。