まずはホームに停めた客車内で、約1時間ほど「夜前祭」と称して軽く飲食して雑談。皆テンションが上がっている。写真を撮ったりサボ(行き先表示版)を飾り付けたり、貫通路から光が入ってこないように目張りをしたり、通路に安全確保用のLEDを置いたり、にぎやか。みな心がはずんでいる。
1時間余りはあっという間に過ぎ去った。再び発車用のホームに移動し、改めて客車に乗り込む。先頭はディーゼル機関車、そして「雪夜汽車」、一番後ろは通常通りの客車という三両編成だ。外から見るときっと異様だろう。中間の車両だけ、真っ暗なのだから。
18時00分。定時出発。同じ車内と思えないほど、皆静かだ。窓の外を流れる五所川原の光は、街灯、自動車、家の窓、踏切と、とても賑やか。一つ目の十川を過ぎると、雪景色の中になる。藁で作った雪除けの柵が宵闇に浮かぶ。雪の中をブルーの道路照明がまっすぐ続き、雪の地平線に消えて行く。雪のおかげで布をかぶせたティンパニーのような音が足元からリズミカルに響く。
一つ一つの窓から見えるのは、明るい夜の雪景色。車や街か度からは見えない光景が汽車のスピードで流れて行く。最後部から眺めていると、前の窓から徐々に後ろの窓へ。夜の景色がつながってゆく。個室では見られない列車ごと空を飛んでいる風景だった。
でも、今宵は銀河鉄道ではない、雪の雲海を飛ぶ列車だった。でもあの時の「銀河鉄道」と同じように、ふわふわと明るい闇を飛んでいた。思ったよりも車内は暗い。そして思ったよりも外は明るい。
市街地を離れると雪野原だ。「夜の底が白くなった」とはこういうことだったんだろう。車内のひとたちは、外の世界に引き込まれたよう。みな一様に静かだ。乗車前はにぎやかにはしゃいでいた子供たちも、不思議な世界に見入っている。
平野に出ると、地吹雪がまともに列車を襲ってきた。電気を消しているせいではないが、夜の光と共に今日の地吹雪まで車内に流れ込んでくる。この客車が完成してから70年、津軽に来てからでももう35年である。現在日本中で走っている鉄道車両の中でも、最古参の部類に入る。しかも本州最北の客車なのだ。
客車がジョイントを渡る音、機関車のエンジンや車輪を回すロッドの音、そして石炭をくべる音、いろいろな旅の音が暗い車内にこだまする。目に見えないところが多いだけ、他の感覚が鋭敏になるのかもしれない。
真っ暗い車内。そこから眺める窓の外。それはまさに「思い出の景色」だった。でもそれだけではない。それは炎だった。ストーブの窓からこぼれる紅の光が、客車の屋根に大きく光る。ストーブに石炭をほおり込む。煙突が、ストーブ自身が、オレンジに染まる。美しく、すこし恐ろしげ。明かり、地形、天候、窓の外は同じように見えて、いっときとして同じ表情はない。「思い出の景色」は思い出以上の景色となって再現された。
片道40分ほどの旅を終えて、津軽中里で折り返し。ここで機関車の付け替えだ。今回車掌を務めてくれた津軽鉄道の最若手、山本くんの出番である。機関車を誘導する姿が、リズミカルに舞っているようにすら見える。
参加者に往路の感想を聞いてみた。「寒かった」に始まり、「こんなに、夜が明るいと思わなかった」という声も。発車直後は最後の夕闇がぎりぎり残っていたが、ホームの明かりに慣れた目には真っ暗にしか映らない。しかし目が慣れると夜空はじつに明るかった。
「きっと宮沢賢治が『銀河鉄度の夜』を書いたころは、こんな感じだったんだろうなあと思いながら乗ってた。童話や小説から想像しているだけだったけど、この列車の中から窓の外を眺めてると、本物の舞台に巡り合った気がする」
「寒いのは楽しむつもりで来ていたから気にならなかった。ストーブを焚きに来てくれるたびにあたたかーいい空気と色を楽しめた。」
往路と違い、暗い列車に少しなじんできたぶん、そんな話も出るようになった。
太宰治の故郷、金木を出るころ、山本車掌がとっておきのサービスをしてくれた。ねぶた囃子だ。専用のケースから出した笛で音を奏でる。哀調も強さも持った美しいリズムが客車の音と溶け合って車窓を彩った。
「時間がとまってるような気がした」と語る参加者もいた。30年前の記憶を基に走らせた列車は、もっと昔へいざなえる、時間旅行の列車だった。
気が付いたら、ほとんど写真を撮っていなかった。また来年、もう一度、この夜汽車を走らせてみたい。本当に何もせず、雪と炎のあかりに溶け込んで旅の音を聞いてみたい。
雪夜汽車から3か月。津軽は5月の連休に桜の満開を迎える。こんどは、「花夜汽車」ができないものか、と次の夢を広げている。
文・写真/川井聡
昭和34年、大阪府生まれ。鉄道カメラマン。鉄道はただ「撮る」ものではなく「乗って撮る」ものであると、人との出会いや旅をテーマにした作品を発表している。著書に『汽車旅』シリーズ(昭文社など)ほか多数。