取材・文/坂口鈴香

顔がひきつる。目が見えない。記憶がおかしい……中道美佳子さん(仮名・52)の夫・伸一さん(仮名・55)の異変は10年前から始まっていた。とうとう会社からも指摘され、検査を受けたところ多発性硬化症から高次脳機能障害を起こし、認知症も発症していたことがわかった。医師からは「会社に行けているのが奇跡です」と驚かれるほどだった。
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怒鳴られると思うと恐怖で体が動かなくなる
中道さんがつらかったのは夫の病気だけではない。暴力こそ振るわないものの、暴言がひどかったのだ。怒鳴るのは酒を飲んだときだけだったのが、次第に飲んでないときでも怒鳴り続けるようになった。自分が変わっていくことへの不安が大きかったのだろうと、中道さんは推測する。
伸一さんは身長が180センチ以上、がっしりした体格だ。そんな男性から激しく怒鳴られる中道さんの恐怖は察するに余りある。
「いっそ暴力を振るわれれば夫から離れるきっかけになったのにと思います。晩ご飯を作っているのに、『お前は晩ご飯も作らない』と責められるんです。ご飯があるのにないと思い込んでカップ麺を食べると、その不満の記憶が残って、私はご飯を作らないというイメージができたんでしょう。そのたびに怒鳴られて、またいつ怒鳴られるかと思うと恐怖が先立ち、体が動かなくなるほどです」
怒鳴り始めたころ、伸一さんに「土下座しろ」と言われたことがある。そのとき、伸一さんは会社の後輩に電話して、「今、嫁に土下座させてる」と笑っていたのが忘れられない。
「病気がさせているんじゃなくて、これが夫の本質なんだと思いました」
その一方で、伸一さんには病気という意識が皆無なのだという。「会社に行く」と言うし、道がわからなくなっても迷っているとは認めない。
「だから毎日駅まで送迎しています。帰りは会社を出ると帰るコールがあるので、そのまま電話を切らずに、駅まで誘導しないといけません。でも最近は誘導も難しくなってきています。GPSで夫のいる場所を確認しながら指示するのですが、表示にタイムラグがあるので、イライラした夫からまた怒鳴られることになります」
スマホを家に置き忘れて出勤したときは大騒動になった。会社に連絡しても来ていないという。出勤経路とは反対方向の駅で転んで起き上がれなくなっているのを見つけた人が、免許証を見て自宅まで送り届けてくれて、事なきを得た。このことも伸一さんは覚えていないので、目を離すと一人で出社しようとするし、中道さんが送ろうとすると「一人で行けると言ってるだろう!」とまた怒鳴られる……そんな毎日なのだ。
大動脈瘤で入院。やっと離れられたと思ったが
伸一さんに介護認定を受けさせたかったが、またどれだけ怒鳴られるかと思うと怖くて申請できなかった。申請できたのは、伸一さんが再び大病を患ったからだ。
「2年前、大動脈瘤を起こしたんです。入院している病院で面談を受ければ、夫が怒鳴り出しても安全なので、ようやく介護認定を申請して要介護2と認定されました」
伸一さんの入院でやっと離れられたと喜んでいたが、病院で暴れたので強制退院させられてしまった。
「夫は外面がいいので、訪問看護をお願いすることにしました。おかげで、自宅で夫を24時間看るという重責は逃れることができたんです」
幸か不幸か、夫は回復し、仕事にも復帰した。これも医師のいう「奇跡」なのだろう。
それにしても、だ。会社に行って帰ることは中道さんの支えで何とかできているが、とても仕事ができる状態だとは思えない。
40代で認知症になった夫|「まだ家のローンも残っているのに」【3】に続きます。
取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。
