父が死の前日に告白したことは、庭の防空壕と米兵の強烈な記憶
茂さんの父は、終戦の年に妻となる女性と結婚し、2人の子供を授かった。60年代に経営していたセメント工場を売却した後、どこかの貿易会社の顧問となり、莫大な資産を築いた。
「祖父と父はいわゆる上級国民。僕はその恩恵を受けて、大企業にすんなり入り、恵まれた人生を生きてきた。亡くなる数日前に、父に“俺は大学も出ていい会社に入って、結婚もして子供もいる。上出来な人生をありがとう”と言うと、脈絡なく“ウチの庭に防空壕がある”と言うんです。簡易物置が置いてある下に、入り口があるから見てこいと」
それは初耳だった。茂さんがまさかと思って物置をどかして調べると、取っ手がついた鉄の蓋があった。持ち上げて階段を降りると、内部の壁がモルタル造りになっている、ひんやりとした6畳ほどの空間が広がっていた。
「僕が住むエリアは、町工場が多くB29に徹底的に狙われた地域でした。祖父と父は防空壕を作り、家族を避難させた。そこに家の使用人が入っていたかどうかは聞けませんでした。父は私に家族を守り、必死で生きた証のようなものを伝えたかったのかもしれません」
亡くなる前日、父は戦闘機から機関銃による攻撃(機銃掃射)をするアメリカ兵と目が合った話をした。
「東京大空襲の数日前、警報から逃げ遅れた父が土手を歩いていると、戦闘機が急降下してきたと。“これは撃たれる”と思い、父が諦めて道に大の字に寝っ転がった。撃ってこないのでコックピットを見ると、アメリカ兵と目が合い、彼はニコッと笑って父の足元に数発の弾丸を威嚇射撃して、去っていったと言いました。日本は戦争が日常だった時代があるんです」
翌朝、父は息を引き取った。死後、隠し財産や非嫡出子などが明るみに出て、茂さんは大変な思いをした。伝えるべき事務的なことがたくさんあるのに、父は何のために防空壕のことや戦時中のことを話したのだろうと、父の没後30年間、時々考えていたという。
「とはいえ仕事は忙しいし、父が亡くなってから約10年後、家庭が半分崩壊したこともあり、父の思いを考えることは先延ばしになっていた。当時、25歳の息子が勤務していた銀行の仕事が合わず、休職して引きこもったのです。妻に対して“お前のせいだ”と家庭内暴力を振るったこともあった。それと時を同じくして、当時22歳の娘がバンド活動をやっている男と駆け落ち。コネで入社させた商社を無断欠勤し、私の顔に泥を塗られました」
娘は、恋人がCDを出すためにと、消費者金融で金を借りた。貢いだ総額は800万円以上になった。そして、最終的には茂さんを頼ってきた。
「父が残した金が面白いほど消えていく出来事は、まだまだあるんです」
【父が戦争でも守り通した家を売却する「すべてはゼロになるんです」……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。
