東京都は2024年も「東京シニアビジネスグランプリ」を開催する。シニア世代の起業意識を高めるために、2019年度から開催されているビジネスプランのコンテストだ。今年は114名がエントリーし、最終選考に残ったのは10人だという。その決勝大会が、2024年2月11日(日)に開催される予定だ。
東京都のほかにも、多くの自治体がシニア起業を支援。日本政策金融公庫にも「女性、若者/シニア起業家支援資金」という融資プランがあり、シニア起業は推奨傾向にある。
義隆さん(67歳)は7年前に情報関連企業を定年退職した。雇用延長も提案されたが「老兵はただ消え去るのみ」と会社を去り、60歳の時にインターネット関連のコンサルタント会社を起業。それから7年間に起こったことを伺った。
現場のエースは役員になれない
義隆さんはコンピューター関連の専門学校を卒業後、転職を繰り返す。定年を迎えたのは、28歳から勤務していた大手情報関連企業の部長職だった。
「外様の私は、はなから役員になれるとは思っていなかったから、サラリーマンとしては合格の人生。仕事もずば抜けてできたのは、当時特別な存在だったパソコンの専門知識がある営業だったからでしょう。母子家庭で育って苦労したこともあり、そこらの東大卒や東工大卒をぶっちぎって、成績を出していました」
現場にいたら何十年も売り上げのトップでい続けられたのだろうが、会社というのは組織だ。成績が優秀な人から出世していく。義隆さんは入社5年目に係長になった。ただ、現場のエースが優秀な管理職にすぐになれるとは限らない。
「グラウンドで走り続けたかったですよ。管理職になると思うように部下が動かなくて、胃潰瘍になったこともありました。人は易きに流れるというか、動かない。サボって手を抜こうとする。なめられてはいけないと、ある程度恐怖を与えつつ統治していた」
当時の社長から個別に呼び出され、「あせるな」「長い目で見なさい」と釘を刺された。
「社長は私より10歳年上で、当時“情報処理装置”と言われて誰も触ったことがないパソコンに未来を見出した人だから尊敬していたんです。今の私と同じくらいの年齢で亡くなったけれど、温かくて恐ろしい人。組織を大きくする起業家というのは、かなりの狂気と深い優しさがある。今の若手の企業家を見ていても、“この人は伸びる”という人には、腹の中に白刃がきらめいているような凄みがあるよね。私のような現場のエースは小物。目の前の利益を追い、すぐに結果を出したがるから。だから役員にはなれないよ」
部長になったのは48歳のときだった。自分より成績が悪い人が、義隆さんを追い抜いて出世していった。組織で終わりが見えるのは40代後半だという。
「部長になるということは、ある程度のトップ集団にいるということ。そこから上の壁が厚い。トップにいたやつらが脱落する。私は外様だから岡目八目を決め込んでいたけれど、会社の出世レースというのは、仕事ができる人にとっては残酷なものがあるよね。そこで分かったのは、役員になるやつは、細かくて、管理ができて、声がでかくて、仕事ができない奴。そんな奴らが役員になるから、今、会社は左前みたいだけどね」
【現場に近い人は定年起業に向いている……次のページに続きます】