はじめに-石成友通とはどのような人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する石成友通(いわなり・ともみち、岩成友通と表記することも。演:阿部亮平)は、「三好三人衆」の一人として、京都の「喉元」を押さえた武将です。将軍・足利義輝が暗殺され、畿内が再び戦乱へ傾く中、友通は山城国(現在の京都府南部)・勝竜寺城を拠点に政局の中心へ躍り出ます。

しかし、織田信長(演:小栗旬)の入京で情勢は一変。阿波へ退きつつも、浅井氏・本願寺・足利義昭(演:尾上右近)らと結び、反織田の戦線を張り直した末に、淀城で討死…。

「畿内政権」が瓦解していく最前線にいた人物として、友通の足跡を追います。

『豊臣兄弟!』では、松永久秀と深い因縁があり、織田信長の上洛に激しく抵抗する人物として描かれます。

石成友通
石成友通

石成友通が生きた時代

室町幕府の権威が揺らぎ、畿内では三好氏や松永久秀(まつなが・ひさひで)らが実権を握っていく時代です。

永禄7年(1564)に三好長慶(みよし・ながよし)が没すると、幼い当主・義継(よしつぐ)を支える体制が必要になり、三好政権を支える実力者として「三好三人衆」が前面に出ます。

その後、将軍暗殺や内紛、そして織田信長の入京によって、畿内の勢力図は激しく塗り替えられていきました。友通は、その渦の中心で戦い続けた一人です。

石成友通の生涯と主な出来事

石成友通の生年は不詳です。天正元年(1573)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

三好三人衆として台頭|将軍暗殺後の畿内を動かす

友通は三好長慶の勢力圏の中枢で動き、三好長逸(みよし・ながやす)・三好宗渭(みよし・そうい)と並んで「三好三人衆」と呼ばれます。

三人衆は当初、松永久秀らと協力する局面もありましたが、やがて畿内は分裂と抗争へ…。友通はその実務と軍事の両面で、三好方の柱として存在感を強めていきます。

三好長逸
三好長逸
三好宗渭
三好宗渭

勝竜寺城を奪取し、京都を押さえる

友通が歴史の表舞台で強く印象づけられるのが、永禄9年(1566)に山城国・勝竜寺城(現在の京都府長岡京市)を奪取し、城主として京都周辺を押さえたことです。

勝竜寺城は、都の近くで軍事・政治の要衝になりうる地点。ここを握ることは、京都を押さえることでもありました。

勝竜寺城
現在の勝竜寺城跡

織田信長の入京が転機に…

永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて入京。畿内制圧が進む中で、友通は勝竜寺城を同年9月に明け渡すことになります。

以後、三人衆は畿内での拠点を失い、情勢は一気に信長優位へと傾きます。

阿波へ退き、反織田戦線に合流

拠点を失った友通は阿波(現在の徳島県)へ退いたのち、再起を図ります。

資料によれば、元亀元年(1570)ごろに浅井氏と結んで摂津・河内に進出し、さらに本願寺・足利義昭らとも連携して、反織田の戦線を張りました。

淀城で敗死

しかし、戦局は信長方へ…。

友通は天正元年(1573)に山城国・淀城で信長軍に攻められ、8月2日敗死しました。

まとめ

勝竜寺城で「京の入口」を握った男が、同じ山城国内で押し切られて敗北する…。友通の死は、三好政権が畿内で主役でいられた時間の終わりを示しているかのようです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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