「仕事ができる人」と「仕事ができない人」は社内に確実に存在する。問題なのは「仕事ができない人」が自分は「仕事ができる」と人に思わせる場合だ。リーダーシップとマネジメントに悩む、マネジメント課題解決のためのメディアプラットホーム「識学総研」から、「仕事ができないのにできる人のフリをする人」の迷惑度合いを考えてみよう。
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ヘタに「できる人のフリをする」ので、かえって周りの生産性を下げてしまう人々の話。
会社には、仕事ができる人もいれば、あまり仕事が得意でない人もいる。
まあ、それは仕方がない。
人間には役割があって、それぞれ得意なことを担うように世の中はできている。
だから、仕事が得意ではなくとも、その人ができることを、それなりにやれば、
まあ良いのではないか、と個人的には思う。
ただ、残念ながら、会社においては「できない人」の肩身が狭いのは事実だ。
当たり前だが、報酬や地位は、会社への貢献度で決まるべきと考える人は多い。
したがって、そこにはある「歪み」が生じる。
それは、「仕事ができない人」が、実質的な貢献によって評価されるのではなく、「できる人のフリをする」ために努力する、という現象である。
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そのような人を初めて見たのは、働き始めて2年目くらいの、まだまだ若造のときだった。
クライアント先で、会議の進行役をしていた私は、会議の終了時間をなかなか守れず、少々困っていた。
というのも、その会議において1、2名「困った人」がいたからだ。
いや、「困った」という表現よりも、ストレートに言えば「迷惑」と言ったほうが良いかもしれない。
具体的に言えば、彼らが会議に入ると、会議の進行が著しく遅れる。
彼らが「一言、言わずにはおれない」ためだ。
例えば、こんな具合だ。
プロジェクトの宿題の進捗確認をしている時、
「この表を見ると、フローチャートの作成の進捗が良くないですかね?」
と私が聞くと、
課長が、
「いまちょうど、業務の見直しを行っている最中でして、フローチャートが変わる可能性がありますので、作成をちょっとまってもらってます。」
と回答した。
「なるほど。確かに前おっしゃってましたね。どのくらい遅れそうですか?」
と確認すると、課長は
「まあ、せいぜい1週間だとは思いますが、確認します。」
と答えてくれた。
普通であれば、ここで一旦、話はおしまいである。
ところが、迷惑な人がここで割り込んでくる。
「いやね、業務の見直しが必要だって、私、前から言ってたんですよ。ようやく動き出してくれて。」
「ああ、そうなんですね。」
「いま、すごく無駄が多くて、例えばこの在庫チェックの時、転記が発生しているんですよ。それだけでもけっこう大変です。」
「はい、わかります。前にお聞きしました。」
「でね、私が転記は良くない、って言い続けて、ようやく今回やめることになりまして。だいたい、これのせいで現場の残業が結構増えてしまっていまして、部長にも前にそう言ったんですよ。」
「あ、はい。そうですね。」
「でね、部長はこう言うんです……」
……
そして、延々と話が続くのである。
会議の終了時間は迫っているし、今そんなことを話す必要はまったくないにもかかわらずだ。
上司が一喝するケースもあったが、優しい人が多い職場だと、誰もそれを止めることができない。
私はなんとなく、彼がこの場で点数稼ぎをしようとしているのがよくわかった。
だが、時間は有限だ。
ちょっと冷たいかな、と思いつつ、最後にはその人に言わざるを得なかった。
「今、その話をする時間はございませんので、日を改めて、また個別にお聞きします。」
彼は、残念そうに、
「そうですね、大事なことですので、ではまた話しましょう。」
と言い、ようやく話は終わった。
会議の場だけではない。
マニュアルなどのレビューをもらうときにも、
「てにをは」「誤字脱字」などの些末なことばかりを指摘してくる人。
「タイトルが良くない」と言って、タイトルを直してくるのだが、そもそもの目的を間違っており、見当外れなタイトルを付けてくる人などがたくさんいた。
中には、文書を校正してくれるのだが、校正後のフローチャートのほうが下手くそだったり、「なんとなく」で文書を直してしまうので、前のページとの矛盾が生じてしまう人もいた。
残念ながら、そのような方がいると、二重に校正をする手間がかかるので、仕事が遅れてしまう。
周りにとっては迷惑以外の何物でもない。
他にも、大体の傾向を掴むだけで良いにもかかわらず、グラフをみて「細かい数値の正確性」ばかりを見ている人。
エクセルで使っているフォントにケチをつける人……
社内だけではなく、社外にも矛先は向く。
社内と違って、反論をうけることが少ないので、上司にアピールできるチャンスだと思っているのかもしれない。
デザイナーの出してきたデザインに「ちょっとここ変えて。簡単な修正だから」と、注文をつけるのだが、デザイナーの意図を全く理解しようとしていないので、全体がちぐはぐになる。
クラウドやパッケージ型のシステムに対して、「うちは特殊だから」と、際限のない注文をつける。
こうして、本当に使うかどうかわからない機能がゴテゴテ付いていく。
本来、注文をつけるのであれば、根拠を示したり、合理的な説明をする必要があるのだが、彼らは上司のウケを狙っているだけで、「とにかくなにか言いたい」が先にくるので、本質から外れる注文をすることが非常に多い。
それで本当に成果が変わるの?というところを全く考えずに、所感だけを述べるため、指摘の中身がないのだ。
もちろん、周りはそんな人にとても優しい。
機嫌を取るために「本当、おっしゃるとおりです。」と、言ってしまうことも多いだろう。
だから、彼らは自分の迷惑さに気づきにくくなる。
役に立たないなら、黙っていてくれたほうがまだよいのだが、ヘタに「できる人のフリをする」ので、かえって周りの生産性を下げてしまうので、なおさらたちが悪いのである。
そんな事象を数多の会社で見るにつけ、彼らに付き合うため、どれだけの生産性が犠牲になっているのだろうと、暗鬱とする。
近年では国際比較などで「日本人の生産性が低い」と揶揄されがちだが、こういった人々への「ご配慮」の影響も多分にあるのではないだろうか。
もしかしたら、これは「成果だけでは評価をしない」「やる気を見よう」という、家族主義的組織の業のようなものなのかもしれない。
なお、余談だが、これと似た事象は、面接でもよく目撃できる。
面接の終わりに「なにか質問はありますか?」と面接官が聞いたとき、「点数稼ぎ」をしようと、中身のうすい質問をしてくる応募者は残念ながら、とても多い。
時間の無駄だし、中身のない質問は、逆に無能をさらけ出す結果となってしまうので辞めたほうが良いのだが、エージェントなどに入れ知恵されたのか、「質問は絶対にするべき」と思っているようだ。
こんな人が、上に述べたような“「できる人のフリをする」ので、かえって周りの生産性を下げている人々”になっていくのかもしれない。
面接官の皆さん、どうかそのような応募者、とくに新卒の方々を見たら、こう言ってあげてほしい。
「無理やり質問をしても、採用不採用には関係がないですよ。いやむしろ、変な質問をすると、呆れられてしまいますよ」と。
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ところで、上のような人の存在を許さない組織もある。
例えばある外資系メーカーのミーティングに参加した時、「無意味な発言」があっという間にロジックで封じられてしまうのを見て、「非情だな」と感じたが、一方では「こりゃ楽だわ」と感じた。
なにせ「できる人」しか、会議への参加資格や、レビューの資格が与えられないのであるから、効率的だ。
そのかわり、「合意を取る」「皆と仲良く」に時間を使う人はいない。
発言は「目的」をはっきりと意識せねばならず、薄い発言をすると、周りから即座に、「それは意味がないと思います。」とはっきりと言われてしまう。
そこではひたすら、実効性と成果が問われる。
だが、そういった組織風土をきついと感じる方は少なからずいるだろう。
だが、これからは、「非効率を許す組織」は、法令遵守の観点からも、採用の観点からも、生き残りが厳しくなっていく。
「できる人のフリをする」人々は、こういった実効性重視の組織が増えるにつれ、淘汰されていくのかもしれない。
そして、それは「だめな人がいても、大目に見てもらえる、家族的な会社」の存在が許される時代の終焉でもある。
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いかがだっただろうか。耳の痛い人もいるかもしれない。だが、「できる人のフリをする」人々は他人事としてまさか自分がそうであるとは考えていないのだ。
引用:識学総研 https://souken.shikigaku.jp/