取材・文/柿川鮎子 撮影/木村圭司

近代化を急いだ明治政府は、芸能や文化を厳しく統制した。怪談が上演できなくなったり、盆踊り、獅子舞なども厳しく規制された。展覧会を禁じられた絵画もあった。江戸の大名家や文人達が所有していた、焼絵である。

李成顯作 烙画十彩色「地上の平和(大地美如画)」板1979年(部分)

焼絵とは何か。長年、焼絵の調査を続けてきた研究家、田部隆幸さんによると、焼絵とは金属製のコテや火箸を熱して紙や絹、木などに絵画や文字を描く作品で、その歴史は古く、『続日本紀』や『平家物語』、『盛衰記』などでも焼絵の記述があるという。

「墨やペンなどの道具が無くても、火を使って絵が描ける焼絵は、私達が火を使うようになった原始時代から伝わる、もっとも古い絵の技工のひとつだったと考えられます」と田部さん。

日本では焼絵を焦画、焼画、屋記絵、火筆画、烙画と言い、中国・韓国では烙画、欧米ではPyrographyである。紙や木、絹のほか、皮革、竹の皮、竹などに描いてきた。現在、焼絵は正倉院のほか、東京国立博物館、三の丸尚三館、国立国会図書館や高麗美術館にも保管されている。

田部さんが手にしているのはインドネシア、ワワン・グニ作 焼絵 キャンバス「三輪自転車」

焼絵を描いていたのは、大名、僧侶、歌人、狩野派の絵師や京都四条派、浮世絵師から最後の文人画家・富岡鉄斎(てっさい:1837~1924年)、藤井達吉(1881~1964年)など、実に多い。しかし、調査不足もあり、絵画作品として見出される作品は、ごくわずかだ。焼絵専業作家の名前も、ほとんど残されていない。

現在残されている焼絵に関する貴重な資料のひとつ、『聚遠(しゅうえん)雑記(附焼絵考)』が、宮内庁書陵部に保管されている。江戸期の儒学者・屋代弘賢(やしろひろかた:1758~1841年)と林亀瑞(はやしきずい:生没年不明)が、奈良、平安から幕末までの10冊の書籍の中の焼絵への記述を抜粋して書き残した。

特に焼絵芸術が花開いたのは江戸時代である。大名は焼絵が大好きだった。江戸期に焼絵を復興した大名稲垣定淳(さだあつ:1762~1832年)と親しかった徳川御三家紀伊紀州藩第十代、徳川治宝(はるとみ:1771~1853年)は19歳で藩主となった後も、「数奇の殿様」として焼絵を描き、稲垣定淳に画号を贈るなど、親交を深めた。讃岐高松藩家老の木村黙老(もくろう :1774~1856年)は焼絵で三国志の英傑・関羽を描き、秋田久保田藩横手城代の戸村後草園(ごそうえん:1768~1854年)は美しい梅花図を作成した。

中でも譜代大名近江山上藩の第五代藩主の稲垣定淳は、焼絵を指導しながら、大田蜀山人(しょくさんじん:1749~1823)、山東京伝(1761~1816年)、式亭三馬(1776~1822年)など文化人との交流を深めていた。東海道中膝栗毛の作家・十返舎一九(1765~1831年)もその一人で、定惇は焼絵筆を3本も贈った。十返舎は大感激して、「有難き仕合せなり」と感謝の文字を、焼絵に書き残している。

江戸時代は「推しの茶色」が大流行

江戸時代、多くの人々の心を捉えた焼絵だが、田部さんによると、その魅力のひとつは茶色の美しさにあると分析している。

「よく、『墨に五彩あり』と言いますが、焼絵の茶色にも五彩があります。

江戸時代、茶色は多くの人々に好まれる色で、歌舞伎役者が梅幸茶、海老茶、芝翫茶、団十郎茶など、自分の茶色を作りました。歌舞伎ファンは、自分の“推しの茶色”を着物に取り入れるなどして、楽しんだようです。焼絵の色調は真っ黒な茶色から、薄い茶色まで幅広く、その色合いの美しさが多くの人々の心を捉えました」(田部さん)。

江戸時代中期から後期にかけて活躍した、京都を代表する歌人・賀茂季鷹(かものすえたか:1754~1841年)は素晴らしい焼絵を見て、

『くしきかも 明け紫の 色からに 千ゝにあやなす 君か焼画は』

という歌を残した。

浮世絵師・恋川白蛾(七十六翁)作、達磨図、紙
焼絵筆で描かれた文字部分を拡大すると、「生るも嘘 活ているも嘘 死るの者ぞ 嘘ということを より合点せよ 虚空の二字を 観るにつけても」という浮世絵師の粋な言葉が。

江戸時代、これほど好まれた芸術作品が、みごとに日本の美術史から忘れ去られた。消えかかった焼絵の火が、海外から逆輸入されて、再発見された歴史もある。民芸運動の父、柳宗悦(1889~1961年)は河井寛次郎らとともに朝鮮半島へ調査に行き、そこで焼絵(韓国では烙画)に出合い、感動した様子を季刊誌「工芸」に書き残している。田部さんの著書『柳宗悦も賛美した謎の焼絵発掘』(誠文堂新光社発刊)では朝鮮王朝時代の烙画についても、詳しく記載されている。

三度倒れないと一流になれない焼絵

幕府の要人が好み、江戸文化に深く根付いていた焼絵を、なぜ、明治政府は禁じてしまったのだろう。その理由について、田部さんは
1.江戸幕府の要人たちが好んだ文化であること
2.西洋絵画とは全く異質で、焼絵が火を使う点で野蛮だと誤解された
という2点が大きな要因だと考えている。

「柳宗悦は韓国で焼絵を描く様子を、実際に見学しましたが、それは火鉢を部屋の外に置き、壁に穴を明けて手を通して、絵筆を焼いて描くやり方でした。炭火を使うため、一酸化炭素中毒の危険があり、“三度倒れないと一人前になれない”と言われていたそうです。

焼絵の茶色は、温度によって色味が変わるため、火筆の温度を微妙に調節しなければなりません。火筆の温度を確かめるには、火傷の危険もあります。温度計の無い時代です。記録では柳営での御前揮毫の時、焼筆を左の手のひらに当てて、火加減を見る妙技を披露し、大御所大いに感じた、と書き残されています。

真っ赤な焼筆で紙、絹に描くことは超絶技法でもあり、火を使うという点で、誤解された点はあると思います。

明治政府としては、江戸の大名や儒学者達に好まれた点に抵抗があり、欧米でも焼絵は盛んであることを知らなかった。焼絵を受け入れがたいと考えたのは、当時としては自然です」と田部さんは分析している。

さらに焼絵にまつわる「わびさび」や「もののあはれ」に通じる日本人独特の空気感は、明治政府が目指す西洋化と相容れなかったのではないか、とも田部さんは語っている。

1801(享和元)年に「焼絵詞」を書いた木元才荘(きもとさいそう:生没年不明)は、江戸の風流人で、古き良き時代を標榜し、焼絵師として活躍した。謎の多い人物だが、一弦の琴を弾き、紙の張り子を使った水遊びを広めるなど、平安時代の貴族たちを思わせる文化を、江戸の人々に提唱した。明治維新の要人達にとっては、こうした古き良き時代の「わびさび」や「もののあはれ」を振り返る時間と余裕が、なかったのかもしれない。

香木白檀の檜扇(ひおうぎ) 群鶴十一羽図 骨に焼絵による鶴が描かれた。

明治政府の弾圧後も生き残った焼絵

明治政府が展示会を禁止した焼絵だが、深く根付いた芸術は、そう簡単に廃れない。明治中期ごろから日本水彩画会創設の丸山晩霞(ばんか:1867~1942年)、跡見女学院に奉職した跡見玉枝(1858~1943年)達は、欧米視察で見つけた焼絵機械を持ち帰り、「焼絵講話」の講義録を作った。

さらに人々の暮らしの中にある工芸品(煎茶箱、菓子箱、煎茶盆)としても生き残った。最も身近な焼絵作品は、羽子板である。三越は羽子板をテニスのラケット型にして、焼絵作品で描き、ヒット商品となった。

ラケット型羽子板、三越百貨店製、
意匠登録出願中、金1円也

NHK大河ドラマ「光る君へ」は紫式部が主人公だが、歌人の与謝野晶子(1878~1942年)は源氏物語が大好きで、和歌「源氏物語礼賛歌」を作成した。この和歌を作るきっかけとなったのが、焼絵の短冊だった。

与謝野晶子は実業家の小林一三(1873~1957年)の家で上田秋成(1734~1809年)の源氏物語の短冊を見学した。『源氏物語五十四首 短冊貼交六曲一双屏風』(逸翁美術館蔵)で、この短冊の下絵が焼絵だった。与謝野晶子は感動し、源氏物語礼賛歌を作成した。感度の高い女流歌人が、焼絵から何かを感じ取ったのかもしれない。

焼絵は現在、その美しさが再認識されて、絵本やイラストとなって、命を繋いでいる。ウッドバーニングと呼ばれる焼絵を楽しむ愛好家は、日本だけでなく世界中で増えてきた。田部さんは日本だけでなくアジアの焼絵についても、研究を続けている。

李成顯作「地上の平和(大地美如画)」板 1979年。日中友好のために描かれた中国人作家の作品。

正統な日本の美術史から消えた芸術が、生まれて約1300年たった現代も、生き残っている。そんな焼絵の姿に、田部さんは日本の未来や確かな希望を感じるという。

「禁止され、忘れ去られても、素晴らしい芸術は必ず見直される日が来ます。伊藤若冲もそうでした。焼絵は日本の正当な美術史からは、零れ落ちてしまいましたが、必ずその美が見直される日がくるでしょう。遠い未来から現代を振り返ってみたら、今がその時なのかもしれません。

火を使った線の暖かさや、茶色の美しい濃淡は、私達に安らぎをもたらしてくれる、芸術です。厳しい時代だからこそ、求められる温もりや優しさがあります。焼絵は、私達に火の豊かさや安らぎをくれるお宝です。

島田洋三作「鮎の群れ」神秘の銘木黒柿に焼絵

今は温度調節できる電気ペンがあり、気軽に焼絵に挑戦できる機会はたくさんあります。ぜひ試してみてはいかがでしょうか? 古の人々の想いに、触れることができるかもしれません。

私と焼絵の出合いは、福井の実家の整理をしていて、茶色いボロボロの絵を見つけたのがきっかけでした。みなさんの家に、もし茶色い線の絵があったら、貴重な焼絵作品かもしれません。ぜひ未来に繋いでほしいと思います」

と、失われつつある焼絵の保存を呼び掛けている。

田部隆幸さん

1943年12月東京生まれ。1966年3月武蔵工業大学(現東京都市大学)機械工学科卒業。同年4月ニッパツ(日本発条)株式会社入社。懸架用ばねの設計開発・研究に従事。国際標準ISOに日本初「ばね(TC227)」を提案・承認。『6カ国語ばね用語事典』(日本規格協会、2004年)編集幹事。2007年の定年退職後、美術分野で活動を開始。日本ばね学会、東洋大学国際井上円了学会、日本陶磁協会、河鍋暁斎記念美術館会、日本中国文化交流協会、日本・インドネシア美術研究会会員。著作に『柳宗悦も賛美した謎の焼絵発掘―定本焼絵考』(誠文堂新光社刊)、『定本 焼絵考~日本・中国・韓国・ロシア・インドネシアの焼絵』(同)など。
日本ウッドバーニング協会(Japan Wood Burning Association)https://woodburning.jp/wba/

文/柿川鮎子 明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。

撮影/木村圭司

 

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