和食の魅力を伝える活動に力を入れているキッコーマン。取り組みのひとつとして好評を博しているのが、第一線で活躍するプロの料理人の磨かれた技を目の前で見ることができる「料理サロン」です。
今回は、6月末に実施された「江戸の食文化と料理サロン」シリーズの第3回、「江戸の食の魅力<鰻>」の講座の様子をお届けします。講師を務めたのは、東京・日本橋の鰻料理店『いづもや』の三代目、岩本公宏さん。戦後から間もない1946年に創業した同店は、鰻の目利きから調理まで、熟練の技が光る専門店です。軽妙な語り口調で、ときには笑いも交えながら参加者を魅了した、岩本さんの講義の様子をお伝えしていきます。
■日本人は5000年前から鰻を食べていた
鰻はいつ頃から食べられてきたのでしょうか。日頃、その歴史に想いを馳せることはあまりないかもしれません。岩本さんがこれまで読んできた文献によると、日本人は縄文時代にはすでに鰻を食べていたと推測できるそうです。
「古い貝塚から発掘された化石に、鰻の骨が見つかっています。貝塚は、食事で出たごみを捨てるような場所ですから、5000年前くらいから日本人は鰻を食べていたのではないでしょうか」
鰻は古くから食べられてきたにも関わらず、「蒲焼き」のように、鰻を開いて焼く調理するという食べ方が成立したのは、江戸後期の頃といわれます。古典落語の演目「始末の極意」を思い出す方もいるでしょう。鰻にタレを塗って炭火で焼き上げる香りは、「匂いをおかずにして飯を食べる」という場面が登場するほど、食欲を刺激するものだったのですね。
■活鰻を一本の包丁で鮮やかに裂く
いよいよ実演です。活鰻を「裂く」という工程で用いるのは、専用の包丁。細かい作業が求められるため、切っ先が鋭い独特の形状をしています。まな板に対して鰻の頭を右側に置き、目打ちをして頭を固定しながら、スッと包丁を引いて背開きにします。さらに、肝を取り除いて骨を引き、細かい骨も処理して、背ビレ・腹ビレといった細かい部分を処理します。先ほどまでぬるぬると動き回っていた鰻を、手早く包丁で裂いていく職人技は、惚れ惚れとする鮮やかさです。
裂いた鰻を「串打ち」していきます。じつは、この言葉にも興味深い話がありました。江戸時代に「刺す」という言葉は、忌み言葉。そこで、鰻屋でも「串を刺す」ではなく「串を打つ」と言うようになったそうです。
じつはこの串打ち、一筋縄ではいかない大変な作業。見た目は柔らかそうに見えますが、鰻の身は非常にかたく、なかなか串が刺さらないのです。岩本さんが修業し始めたばかりの頃、自分が1本打つ間に、熟練の先輩職人は10枚の串打ちをこなしていたそうです。
また、串の奥には尾側の身、手前は頭側の身を配置することにも重要な意味があります。頭側の身は尾側よりも重いので、手前にすることで鰻の身が焼いているときにダレないようにしているのです。
■素焼きしてから蒸し、タレをつけて焼く
いよいよ鰻を焼いていきます。『いづもや』では、串を打った鰻を炭火で素焼きしてから、蒸し器で蒸し上げ、さらにそれをタレにつけて炭火で焼き上げます。このように、「蒸す」という工程を入れるのが関東風といわれ、ふわっと口の中でほどけるような食感が特徴です。一方、関西風の場合は蒸さずに炭火だけで調理しますが、それぞれのおいしさがあります。
■この日のために考案された鰻尽くしのコース
キッコーマンの「料理サロン」のお楽しみは、昼食を兼ねた試食です。この日は、講義を聴きながら鰻尽くしの前菜をいただき、3通りの味で焼き上げた鰻を食べ比べするという、贅沢な内容でした。
■職人の仕事を知ることで味わい方が変わる
鰻の仕事は「串打ち三年、板(さばき)八年、焼き一生」といわれます。ところが、「自分は全部一生かかると思っています」と話す、岩本さん。
「季節によっても身の大きさや脂の質も変わりますし、常に同じ鰻を扱うわけではありません。どんな鰻でもすべて同じように仕上げるには、ひとつのものを一生かけて極めていくという気持ちが必要です。だから、鰻の料理人は“職人”であり、“板前”とは呼ばないんです」
日本橋に暖簾を掲げる老舗の三代目として活躍する岩本さんは、今回の講座のように、日本の食文化のひとつとしての鰻について、もっと知ってもらう活動に力を入れていきたいといいます。
「鰻は高価と思われている方も多いと思いますが、鰻の置かれている状況や、我々職人がどのような手間をかけているかを知っていただくと、また味わい方が変わるのではないでしょうか。今回は鰻の職人が使う調理の専門用語などもお伝えし、今まで知らなかった鰻の知識を少しでも持ち帰っていただけたように思います」
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取材・文・撮影/大沼聡子