画家・松井守男は、コロナ禍の日本で突如国内で名前が知られるようになった、フランスを拠点に活躍する画家だ。2020年たまたま日本に滞在中に新型コロナウイルス感染症が発生。フランスに帰国できなくなった。そのときにNHKの『日曜美術館』に出演。「コルシカのサムライ NIPPONを描く 画家・松井守男」というタイトルで放送された回は、歴代トップクラスの視聴率をマークする。
貧しい実家、日本を出て絵を志すまで
松井は60年近くフランスで活動しており、晩年のピカソと5年間もの長きにわたり交流を重ねたことでも知られている。
「1967(昭和42)年、私が24歳のときに、横浜港からパリに行きました。当時、海外は遠く、船で1か月ほどかけて行くしかなかったんです。船からテープを投げて桟橋にはたくさんの見送りの人がいて、だんだん祖国が遠ざかって行きました。そのときに、ショックを受けるできごともあり、“絵で生きるしかない”という気持ちで、パリに来たのです」
松井は日本でもかなりの努力を重ねていた。
「実家は豊橋の魚屋兼仕出し屋で、父は孤児だった苦労人。僕は14歳のときに母を亡くしています。きょうだいも7人と多く、僕は6番目。実家は本当に貧しかった。でも勉強も運動もできて、絵も描けたので、東京の美大に進学できました。そのときまで、自分は万能だと思っていたんです。しかし、美大に入ったら、僕より上手な人ばかりで、世界の広さを知ったのです。それに驚いて、必死に絵を描いて勉強したから、首席で卒業したのです。自分の世界の狭さを痛感したからこそ、もっと広い世界を見たくなった。そこで、芸術の都・パリを目指したのです。当時、“フランス政府奨学生”という制度があり、それに応募するためにフランス語を猛勉強。めでたく合格し、留学することができたのです」
フランス政府から奨学金を受け、生活の保障を得ながら学べるのはたった1年間。しかもその留学は茨の道が続くものだった。
「パリ国立美術学校に入学し、本当に世界の狭さを知りました。パリは、世界中から優れた芸術家が集まるとんでもない場所。私は最初こそ補欠生でしたが、寝食を忘れるほど絵に没頭し、学び続けました。そのうちに、絵が評価され、“東洋の真珠”といわれるようになっていたのです。
出る杭は打たれるの言葉通りに、その後はとんでもないいじめに遭いました。苦心して描いた作品がトイレにあり、しかも釘で打たれているなどは日常茶飯事でした。それでも絵に取り組み続けていると、いじめはエスカレートしていきました。危機的状況に追い込まれたのは、政府関係者を親に持つ学生が、私をフランスに滞在させまいと、ビザを失効させる工作まではじめたのです」
パリでピカソに出会うまで
どこにも居場所がないだけでなく、フランス滞在も危うい。しかし、当時、松井の作品は一定の評価を得ていた。にもかかわらず、発表の機会は周囲によって潰されていく。失意のどん底にいた松井に手を差し伸べたのが、ピカソの親友という高齢の男性だった。
「捨てる神あれば拾う神があるんです。彼はフランス画壇に影響力がある人物で、“モリオをこのまま日本に帰すのは忍びない。ひとつ、おまえの望みをかなえるよ”と言ったので、ピカソに会わせてほしい、と言ったのです」
その当時は、ピカソは世界的な画家で、世界中の芸術家の憧れの存在であり、雲の上にいた。しかし、崖っぷちに立ち、どん底にいた松井は本気で「ピカソに会いたい」と言った。そして、その願いはかなった。
「南仏のアトリエに行き、はじめてピカソに会ったときのことは、鮮やかに覚えています。彼は黒く美しい瞳をしており“お前に会うためにとった時間で、本来なら残せた傑作が、この瞬間に消えているのかもしれないんだ。私に会うというのは、そういうことだ”と言ったのです」
辛辣極まる言葉に、松井はひるむ。ピカソはそんな松井に「私の絵を、どう思う?」と聞いた。
「これはすごい質問です。そこで私は感じた通りを言葉にしました。“形も色もなく、光しか見えません”と言ったのです。その後、ピカソの表情が和らいで“明日から来なさい”と言ってくれた。ピカソは生涯、ひとりの弟子も取っていません。そのアトリエの出入りを許されたのです。それから、5年間、ピカソがパリにいるときはアトリエに向かい、南仏に帰るときは、私もついていきました」
世界的芸術家の制作風景を間近で見る。ピカソはどのように制作をしていたのだろうか。
「ものすごいエネルギーで作品にぶつかっていました。いつもくたびれたシャツとロングズボンをまとい、描いた後はエネルギーを使い果たしていた。服を着ることさえ忘れていることもありました」
ピカソは生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、1973(昭和48)年に91歳でその生涯を終える。
「何にもとらわれず、ひたすらに作品に打ち込む。そうして完成した作品は、内側から発光している。ピカソから学んだことはたくさんあります。そのうちの代表的なことは、自然のエネルギーを作品にすること。そして、人間も自然の一部だということです」
その後、40歳のときに、松井は代表作『遺言』を完成させる。
「面相筆という細い筆を何千本も使い、絵の具を重ねていく緻密な織物のような作品です。2年半にわたり、アトリエにこもって色を重ねていきました。これまでの人生の喜び、怒り、悲しみ……すべてを色と作品に込め、無我の境地になることも多々ありました。そして、その自分の内面が浄化されたと感じた頃、絵が発光したかのように感じたのです」
圧倒的な努力と悲しみ……そして喜びを経て到達した松井の新境地。この魂をぶつけた作品は突き抜けていた。フランス画壇で大喝采を浴び“光の画家”と呼ばれるようになる。
「描けば描くほど、新しい作品を描きたくなる。経験を重ねるほど楽しくなっていく。日常で見聞きしたこと、感じたことのすべてが作品に投影されていくのです。ですから、私は今でも成長途中ですよ」
直近の代表作は、2018年 神田明神文化会館に奉納した『光の森』という作品だ。縦2.5m×横10mというスケールにも圧倒される。
「自然の美しさ、東京の歴史、四季の移ろい……森羅万象を表現しています。細かく見ると、芽吹く若芽、紅葉、堆積する落葉などもわかります。この神田の地がはるか昔は山であり、鎮守の森で緑が広がっていたことを表現しています」
江戸の町は1590年(天正18)までさかのぼる。徳川家康が駿府から江戸に移ってきたその当時は、日比谷までが海だった。おそらく神田山の高台から江戸湾の青い海が広がっていたであろう。
この絵は、どれだけ見ても見飽きず、忘れていた記憶が呼び覚まされ、自分が自然の一部であることを感じる。
「山、森、海、川……自然の叡智をもらい、それを作品にしています。最高の自然と光を感じながら、この作品を描きました。この作品を77歳のときに描いたのですが、10mの作品を描くのは今しかないと思ったのです。というのも、これを描くには、脚立に乗って筆を入れ、遠くからその絵を見て全体をとらえるという身体能力が不可欠だからです。ピカソは生涯にわたり傑作を作り続けましたが、80歳を超えると10mを超える作品を描くのは厳しかった。だから、私も70代のうちに描こうという気持ちがありました」
人間も自然の一部、自分の美しさに気付こう
「70代は若い。やろうと思えば何でもできる」そんな話を聞いていると、自分も絵が描きたくなる。自然の美しさを表現したくなってくるのだ。
「絵を描くときに、“上手に描こう”と思わないことです。自分の心の命ずるままに、自分がいいと思ったものを描く。自分に集中するのです。人の言うことを気にしないことも大切。あとおすすめしたいのは、左手で絵を描くこと。思うようにいかないから一生懸命に描きます。これは絵を学んだことがある人に特におすすめしたいです。これは脳にもいいのだそうですね」
絵を描くだけでなく、これから「人生100年時代」を楽しく生きるためにも、自分の美しさに気付くことも大切だ。自分も自然の一部であり、自分を愛することは自然を愛し、その美しさに見出すことにもつながっていくのだから。
「日本人に“モデルになって”と頼むと、“鍛えてから来ます”とか“痩せてからお願いします”
などと言われます。これは、若く健康であることが美しいという刷り込みをされているからではないでしょうか。アーティストは自然の中の美を作品にします。私は10代から90代まで、健康な人から障害を抱えている人まで、あらゆる人をデッサンしています。そこで現れるのは内面です。誰もがハッとするほど美しく、肉体は老いても、心はそうではないことを感じています。最初は画一的な美にこだわって固く閉ざしていた心が、開いていくことを感じることもあります。
また、人それぞれ、美しいパーツを持っているのです。耳の形、手の形、爪、肌の感じ……誰もが美を持っている。全体ではなく、部分にスポットを当てるという、ものの見方もあります」
松井自身もモデルになったことがあるという。
「留学生時代、学校で学生が順番にモデルになってデッサンすることがあったんです。私はとても恥ずかしく、“日本人の男は、結婚する相手にしか裸を見せない”と言ったのですが、避けることはできません。それでモデル台に立った。そのとき、パリで浮世絵の春画がブームになっていて、日本人男性の性器は極端に大きいと皆が思い込んでいた。終わると“モリオは普通の大きさなんだね”って(笑)。あのとき、自分の肉体へのコンプレックスから解放されたような気がしました」
松井は肉体も若々しい。その秘訣を聞くと、「絵を描いているから」と即答した。加えて、パートナーを始め、他者との触れ合いも大切なのではないかと続けた。
「これはいつの頃からか、日本人は圧倒的に他者との触れ合いをしなくなった。誰かに自分のありのままの姿を見せ、愛し愛されることはとても大きな意味を持つ。あとは言葉に悪意を持たせないこと。無意識に意地悪なことを言う言葉づかいを見直してみるといいかもしれませんよ。日本にこの1年半ほど滞在していて気付いたのは、“あなた、〇〇さんに足を向けて寝られないだろう”とか、“〇〇してあげたんだから、〇〇して当たり前だ”とか他人に向けて言葉を発する人が多いこと。悪意はないのはわかるけれど、他人の気持ちを支配したいという意思は、意地悪となって伝わってしまう。自分がどう思うか。それだけに集中して生きることが若さの秘訣だと思いますよ」
次回は定年後の人生を生き生きと楽しく生きるコツについて紹介します。
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