今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「私は、世界に日本人として生きたいと思う、それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う」
--藤田嗣治

画家の藤田嗣治は、明治19年(1886)東京・牛込区(現・新宿区)の生まれ。父親の仕事の関係で、翌明治20年(1887)から10年ほどを熊本で過ごした。この期間は、夏目漱石が熊本の第五高等学校に勤務していた時期とも重なり、両人は熊本市内のどこかですれ違っていた可能性もある。

藤田の父は、のちに森鴎外のあとの陸軍軍医総監となる人物。中学を卒えたらすぐにでも渡仏したいと思いこんでいる息子を見て、父は上司の森鴎外にアドバイスを求めた。鴎外はこう言った。

「日本画壇には種々の事情もあるから、まずは日本の美術学校を出ておいた方がいい」

アドバイスに従い藤田は東京美術学校に進むが、そこでの窮屈な指導にどうも馴染めなかったという。文展(文部省美術展覧会)にも3年連続で落選。世界の檜舞台に羽ばたくことを宿願とする藤田としては、やはりパリへ旅立つしかなかった。

大正2年(1913)、27歳の折に単身渡仏。パリ到着後まもなくピカソのアトリエを訪問し、大いに衝撃を受け触発された。そのときの自身の思いを、藤田は随筆『腕(ブラ)一本』の中にこう綴る。

「絵画というものはかくも自由なものだ。(略)自分の考慮を遺憾なく自由にどんな歩道を開拓してもよいと言うようなことを直ちに了解した。その日即座に私は自分の絵具箱を地上に叩きつけて、一歩から遣り直さねばならぬと考えた」

ここから、独自の画境を拓くための藤田の苦闘が始まった。
食うや食わずの日々。床屋に行く金などもちろんないから、トレードマークのおかっぱ頭が誕生する。

そうして、やがて、肌の質感までを感じさせる独得の乳白色の裸婦画で絶賛を浴びるようになる。当時のパリは華やぎと狂騒の時代。

モンパルナスのカフェには、夜毎、芸術家たちが集い賑わいを見せる。藤田も仮装パーティに女装してあらわれるなどして人気をさらい、パリの寵児となった。

掲出のことばは、国際的画家として成功をつかんだ頃の藤田嗣治の思い(『腕一本』より)。世界を舞台に奮闘すればするほど、己のルーツというものを強く意識するし、そうでなければ根無し草のようになってしまう。そういうものなのだろう。藤田はこうも綴っている。

「私は、フランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい」

後年、戦争記録画をめぐるトラブルと失意から日本画壇と訣別し、日本国籍を捨てることになっても、藤田は日本から取り寄せた広沢虎造の浪曲のレコードを愛聴し、塩辛や茶漬けを好んで食べていたという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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