
文・写真/福成海央(海外書き人クラブ/オランダ在住ライター)
アンネ・フランクといえば、日本でもよく知られている「アンネの日記」の著者だ。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害から逃れるため、約2年間の隠れ家生活を送った少女である。隠れ家はオランダのアムステルダム市、プリンセンフラハト263番地に現存し、「アンネフランクハウス」として一般公開されている。
しかしそこを訪れた人の多くはおそらく知らない。実はアムステルダムにはもう1つの「アンネの家」がある。それは、隠れ家に行く前に住んでいた家。アンネが4歳から13歳までの約8年半、家族や友達と過ごした家だ。
場所はアンネフランクハウスから徒歩で1時間ほど南に行ったアムステルダム南地区。メルヴェーデプライン37番地。メルヴェーデ広場を囲む集合住宅の一室だ。アンネは1929年にドイツのフランクフルトで生まれた。1933年1月、ヒトラーが首相となりユダヤ人迫害の動きが急速化、フランク一家はドイツ脱出を決めた。まず父のオットーがオランダへ行き、会社設立、住居購入など生活基盤を整えた。その後、母のエーディトと姉のマルゴット、そしてアンネもアムステルダムにやってきた。

ここでアンネはどのような幼少期を過ごしていたのか。アンネフランク財団が当時の資料や友人たちの証言などを展示している他、ウェブサイトでも多くの資料を公開している。残されている写真は、この周辺で撮影したものも多い。

(出典:Collection Anne Frank Stichting / [onbekend, 1935-04], Identification [A_GezinFrank_III_020])
しかしこの日常も1940年5月、ナチス・ドイツによるオランダ侵攻を境に少しずつ失われていく。オランダは5月15日降伏し、アムステルダムもドイツ軍の占領下に置かれた。最初は大きな動きはなかったが、1941年以降ユダヤ人への迫害が広がっていった。

(出典:Collection Anne Frank Stichting / [Wilp, Hermann, 1941-05], Identification [A_AFrank_III_055.113])

(出典:Collection Anne Frank Stichting / [Frank, Margot, 1941-05], Identification [A_AFrank_III_055.112])
実は、生前のアンネの姿が残されている唯一の動画がある。それはこの家のベランダから、隣人の結婚式を眺めている様子だ。アンネフランク財団の公式Youtubeチャンネルで公開されている。新郎新婦が階段を下りてきた直後、左側のベランダにいる少女がアンネだ。
参照:https://youtu.be/4hvtXuO5GzU?si=ExDWnc32c3IzsBQF
次第にユダヤ人に対する禁止項目が増えていく。アンネは映画館や公園に行けなくなり、転校も余儀なくされた。街中ではユダヤ人であるというだけで連行されるようになり、一家は身を隠して生活することを決意。オットーは娘たちには内緒で会社の事務室の奥に、隠れ家の準備を進めていた。しかしマルゴットにナチスからの出頭命令が出たことから、急遽隠れ家に向かうことになった。親友に別れを言えず、愛猫も連れて行けず、住み慣れた家を突然出ていかなければいけなかった13歳の子どもの気持ち。想像しようとするだけで、胸が痛い。メルヴェーデ広場には、住んでいた家を背景に荷物を抱えるアンネの像が建っている。

1942年、7月6日の朝。アンネは両親と一緒に出発した。どのルートを通って隠れ家まで向かったのか、アンネフランク財団に問い合わせたところ、資料収蔵・展示担当のLiselot van Heeschさんが快く貴重な情報を教えてくれた。まずアンネたちが通ったルートは明確な記録が残っていない。しかし一足先に自転車で向かったマルゴットが通ったルートはおよそわかっているそうだ。
これはフランク家を手助けしていたオットーの会社の従業員、ミープ・ヒースの証言によるものである。ミープは朝7時半にマルゴットを迎えに行き、一緒に自転車で隠れ家に向かった。ヴァール通り、ノーダーアムステル通り(現:チャーチル通り)、フェルディナンド・ボル通り、ファイゼル通り、ロキン広場、ダム広場、ラードハウス通り、そして最後にプリンセン通りを曲がり、プリンセンフラハト263番地に到着したのだという。現在の地図と照らし合わせると、王宮のあるダム広場までまっすぐ北上していき、そこから西方面に向かってプリンセンフラハト通りに出ている。シンプルな最短ルートのように感じた。
隠れ家にはフランク家4人の他、4人のユダヤ人が一緒に暮らしていた。制限の多い生活の中で、当然人間関係の摩擦も起こる。思春期のアンネにとって、書くことは何よりの慰めになった。アンネは赤い日記帳を持ち込んでいた。そこには日記をもらった13歳の誕生日当日1942年6月12日から12月5日までの記録がある。その後は別のノートやメモ紙などを使って、日記や小説など多くの文章を書いた。
しかし約2年間の隠れ家生活に突然終わりが訪れる。1944年8月4日、ナチス・ドイツ親衛隊が家宅捜索を行い8人を発見。全員が強制収容所へ連行された。アンネはいくつかの収容所を経て、1945年の2月から3月頃に、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で15歳で亡くなったとみられている。
8人のうち、生還したのはオットーだけだった。アムステルダムに戻ってきたオットーに、ミープは隠し持っていたアンネの日記帳やノートなどを渡した。アンネは隠れ家生活中、ラジオでイギリスに亡命中のオランダの教育大臣が「後世の人々に伝えるために、日記や手紙など占領下の日常の記録を残してほしい」と呼びかけたことをきっかけに、自分の日記を出版することを夢見ていた。そのための推敲作業も行っていた。オットーはアンネの思いを継ぎ、バラバラだった日記やメモを取りまとめて推敲し、公開することにした。それが後に世界的にベストセラーとなった「アンネの日記」である。
その後、アンネの家はどうなったのか。プリンセンフラハト263番地は、都市開発により解体の危機があったが、反対する市民運動によってアムステルダム市に建物ごと寄付された。そして家の保全と公開を目的としたアンネフランク財団が設立され、1960年から「アンネフランクハウス」として一般公開が始まった。
一方メルヴェーデプライン37番地は、フランク家がいなくなった後も多くの人が住んだ。そして2005年以降はオランダ文学基金が住宅公社から借り受け、著作活動によって迫害や脅迫を受けている作家やジャーナリストたちに、一時的な滞在場所として提供している。シリア人の作家、中国人の反体制派作家、ルワンダ人のジャーナリスト、エチオピア人の新聞編集者など多くの著作家たちがこの家に身を寄せてきた。2017年にはアンネフランク財団が家を購入し、引き続きオランダ文学基金を通して同事業が続けられている。現在は改修工事中だが、今年秋以降に再び入居者がやってくる予定だそうだ。
アンネが最初に赤い日記帳を綴った場所は、今も弾圧に屈せず言葉が紡ぎだされる場所として生き続けている。そして書き続けた場所は、日常が奪われていく恐ろしさを伝える場所として多くの人が訪れている。アムステルダムにあるこの「2つのアンネの家」は、どんな時代でも人は思いを残し、時と場所を超えて伝えていけること、そして二度と繰り返してはならない歴史を宿して、今もそこにある。
アンネフランクハウス(プリンセンフラハト263番地)
https://maps.app.goo.gl/qNKAjYEh18rCy4Xr9
アムステルダム中央駅からトラムで10分ほど。徒歩でも20分ほどで行くことができる。
https://www.annefrank.org/en/
チケットは公式サイトでのみ購入可能。
アンネの家 旧家(メルヴェーデプライン37番地)
https://maps.app.goo.gl/FE6MCvNrjPbcXoqL8
建物前の道路にはフランク一家が住んでいたことを示す金属板が埋め込まれている。アムステルダム中央駅からトラムで約20分。
https://www.annefrank.org/nl/museum/web-en-digitaal/het-woonhuis-van-de-familie-frank-360-graden/
一般公開はされていないが、Google Arts & Cultureにて360度画像を見ることができる。また専門家による周辺ガイドツアーも行われている。
文・写真/福成海央 (オランダ在住ライター)
2016年よりオランダ在住。元・科学館勤務のミュージアム好きで、オランダ国内を中心にヨーロッパで訪れたミュージアム、体験施設は100カ所以上。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」(https://www.kaigaikakibito.com/)会員。











