
小泉セツ&小泉八雲の夫婦がモデルとなった朝の連続テレビ小説『ばけばけ』が注目されています。実はその小泉夫妻と、明治の文豪・夏目漱石と妻・鏡子は、不思議と重なり合う縁で結ばれていた、というのをご存じでしょうか。
夏目漱石の研究家として知られ、『心を癒す漱石の手紙』などの著書を持つ、作家で雑誌編集記者の矢島裕紀彦さんによると、二人の文豪とその妻たちには奇縁と呼ぶしかないような不思議なつながりがあると言います。
多数の文献や手記を紐解きながら、二組の夫婦の知られざる素顔を全26回の連載にて紹介します。
最終回となる第26回では、小泉八雲、夏目漱石のそれぞれの最期をご紹介します。54歳と49歳。二人の不思議な縁は最後まで切れることはありませんでした。
文・矢島裕紀彦
亡くなる直前まで原稿を書き続けた八雲と漱石

小泉八雲が自身の体に異変を感じたのは、明治37年(1904)の9月19日だった。午後3時頃、セツが書斎に行くと八雲は胸に手を当てて、静かにあちこち歩いている。心臓がふるえるようだという。セツは二人引きの人力車でかかりつけの医師を呼びにやった。八雲は遺書のようなものをしたためた。八雲は少し前から、この心臓への不安が萌すことがあった。そんなとき、ウイスキーの水割りを飲んで気持ちを落ち着けていたのだった。八雲は文書を書き上げると、それをセツの遠縁に当たる民法学者の梅謙次郎に渡すように言い、こんなふうに続けた。
「この痛み、もう大きいの、参りますならば、たぶん私、死にましょう。私死にますとも、泣く、決していけません。3銭あるいは4銭くらいの小さい瓶買いましょう。それに私の骨入れて、淋しい片田舎の小寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子どもとカルタして遊んで下さい。私死にましたの知らせ、要りません。もし人が尋ねましたならば、はああれは先頃なくなりました。それでよいです」
だが、しばらくすると胸の痛みがおさまった。到着した医師の診察でも特に悪いところはないということで、何事もなかったかのように談笑して別れた。
1週間後の9月26日の朝、八雲はセツに、遠いところへ旅をした夢の話をした。
「大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかしています。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中。西洋でもない、日本でもない、珍しいところでした」
その夜の夕食後、いったん書斎に入っていた八雲が、小1時間ほどするとセツの側にきて、「ママさん、先日の病気、また参りました」と言ってきた。セツが寝床へ休むように勧めて、横にならせると、まもなく、あっけなく西方へと旅立ってしまった。
セツの呼ぶ声で長男の一雄が駆けつけ、胸に取りすがって「パパア!」と叫んだが、答えはなかった。八雲はただ、胸の上で両手を組み仰向けに静かに臥床していた。死因は狭心症。54年3か月の生涯だった。机の上には書きかけの原稿紙があり、傍らに置いてあるペン先のインクはまだ乾いていなかったという。『思い出の記』にセツは綴る。
少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑いを含んでおりました。天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病したりして、いよいよ駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だと今も思われます。
あとで思えば、死の数日前、庭にある桜の一枝が返り咲きした。八雲が以前から愛おしんでいる桜の木だった。セツは「返り咲きは不吉な知らせ」という言い伝えを思い出しちょっと気にかかったが、八雲は花が咲いたのを喜んでいた。その花は八雲没後の27日いっぱい咲いて、散った。まるで八雲に別れを告げるために咲いたようだった。
葬儀はゆかりのある瘤寺で、親交のあった前の住職を導師として仏式で営まれた。八雲は「片田舎の淋しい小寺」に埋めてほしいと言っていたが、寺に葬っても墓地はすぐに移転になることが多いため、セツは、八雲が好んで散歩した雑司ヶ谷の共同墓地に埋葬することにした。
八雲の死から3か月後、夏目漱石が小説『吾輩は猫である』で鮮烈な文壇デビューをする。漱石はその後、教職を去り多くの作品を紡ぎ上げていくが、その胸底には、亡き人の志を受け継ぐような思いもあっただろうか。晩年の漱石はけっして健康な体ではなかったが、最後の最後まで、ペンを握り続けた。
大正5年(1916)11月22日の朝も、夏目漱石はいつものように自宅書斎の紫檀の机の前に座った。午前中のうちに、朝日新聞に連載中の小説『明暗』1回分の執筆を終えるのが、この頃の漱石の日課だった。ところが、この朝は1文字も書かぬうちに激しい痛みに襲われ倒れた。お手伝いが昼食前に服用する持薬をもっていくと、漱石は机の前の絨毯の上にうつ伏せになって、胃潰瘍の発作にじっと耐えていた。
呼ばれて駆けつけた鏡子が、漱石の傍らで声をかけた。
「具合が悪いようでしたら床をとりましょうか?」
漱石は「ああ」と返事して、続けた。
「人間もなんだな、死ぬなんてことは何でもないもんだな。俺は今こうやって苦しんでいながら辞世を考えたよ」
縁起でもないと思った鏡子は、その言葉に取り合わず、床を延べて漱石を寝かせた。着替えさせる余裕もなく、着の身着のままの姿であった。この病臥が、そのまま漱石の臨終につながっていく。机の上の、「漱石山房」の篆書を左右から龍頭がはさむ、19字詰め10行の原稿用紙はまっさらなまま。ただ右肩に「189」という数字だけが書かれていた。前日に『明暗』第188回の原稿を書き上げ、次の原稿用紙に心覚えとして記しておいたこの数字が絶筆となった。
書斎で倒れてから18日間、主治医の真鍋嘉一郎らによって治療の手が尽くされた。真鍋は松山時代の漱石の教え子で、当時、東京帝国大学医科大学物療内科教授を務めていた。家族はもちろん、交代でやってくる門弟たちや、鏡子が頼んだ看護婦も付き添って、漱石の容態を見守った。次第に衰弱していく中で、一時大出血をして危殆に瀕して真鍋が慌てていると、漱石が「何を騒ぐか、君がちゃんと落ち着いてくれんと俺は落ち着いて往生できんじゃないか」と叱るような場面もあった。その一方で、死の床で妻に対して「トーストが薄い」と駄々をこね、「死ぬと困る」とうわ言を口走ったこともあったという。
この時の胃潰瘍発作の端緒は、11月18日の食事に溯れると、漱石没後に遺体の解剖に当たった東京帝国大学医科大学の長与又郎は記している。それは、現存する漱石最後のものとされる書簡から読み解ける。
拝啓 昨日山鳥が到着致しましたので何処から来たのかと思つたら大谷正信といふ札が付いてゐました。何うも有難う御座います。(11月19日付)
奇しくもそれは、小泉八雲の松江時代からの教え子で、八雲の助手のような役割も果たしていた大谷正信から送られてきた山鳥(鶉の粕漬け)に対する謝礼の手紙だった。漱石は到着した晩(11月18日)にこれを骨ごと賞味し、結果として疼痛と膨満感を覚えた。このことが、最初の呼び水になったというのだった。このことも、ある意味、漱石と八雲の不可思議な縁であったかもしれない。
その3日後の21日には、そこに追い打ちがかけられた。この日、漱石と鏡子は築地の精養軒で行なわれた知り合いの結婚披露宴に出席した。宴席は男女別々に別れていた。鏡子は机の上に漱石の好物の南京豆がのっているのを見て、出掛けにも「胃が痛い」と言っていた夫が、注意する者がそばにいないのをいいことに、胃に負担がかかるこんなものを食べなければいいがと案じていた。宴がお開きになっての帰途、鏡子が尋ねると、漱石はあっさりと南京豆を食べたことを告白した。「胃が痛いなんかと言ってて、いやな人ね」と言われた漱石は「なあに、もうすっかり治ったよ」と応じたが、このふたつの要素が、漱石の胃を悪い方に刺激し、翌22日の胃潰瘍発作の誘因となったらしかった。とはいえ、これは飽くまで病臥直前の経過分析に過ぎない。そんな食物の刺激以上に、真摯に執筆に打ち込む時間の蓄積が、神経的にも胃に極度の負担をもたらしていた。そういう意味で、胃潰瘍はまさしく漱石の職業病であり、逃れがたき宿痾であったと言える。
風もなく温かい小春日和の土曜日だった。漱石が床に臥せってから18日を数える12月9日である。いったん学校に送り出された子どもたちは、昼前に次々と呼び戻された。父親の病状に危険が察せられたからだった。次男の伸六が、のちにこう回想している。
私等が母につれられて、やつと父の枕元に坐つた時、父は突然眼をあけてニッと異様な笑ひ顔をした。(略)隣に並んだ姉達は、いつの間にか声をあげて泣き初めてゐた。其泣声が聞こえたのか、父は又急に眼をあいた。
「泣くんぢやない、泣くんぢやない、いゝ子だから」
父のこんなやさしい声を聞いたのも、私は此時が初めてだつた。(『父・夏目漱石』)
午後5時過ぎ、漱石はひどく苦しみ出した。息は死とのせめぎ合いを経て、もはや次第に消えていこうとしていた。その唇を、医師に促されて、鏡子が、子どもたちが、友人、門弟たちが、ひとりまたひとりと水筆でしめらせていく。末期の水であった。午後6時45分、じっと脈をとっていた主治医が病人の手を静かに胸の上に返し、「ご臨終でございます」と言って頭を下げた。満年齢で50歳に2か月ほど足りない生涯だった。
あの日、鏡子が聞き取ることのなかった漱石の辞世がどんなものであったのか、知る由もない。今はただ、亡くなる3か月ほど前の芥川龍之介宛て書簡に書きつけた「秋立つや一巻の書の読み残し」の一句が、余韻とともに胸にしみる。
同じ場所で荼毘に付され、同じ場所に葬られたふたり
葬儀は12月12日、青山斎場で催された。前日の新聞には時間を間違えて報知してあったにもかかわらず、多くの会葬者がつめかけた。森鴎外もやってきて、受付にいた芥川龍之介が、初めて見るその立派な風貌に打たれたという逸話が残る。漱石と鴎外は、生前、子規庵における歌会や上田敏の洋行前の壮行会など、数度しか顔を合わせたことがなかった。それでも、互いに尊敬の念を払い、著書などは献呈し合っていた。かつて鴎外が暮らした駒込千駄木の家に洋行帰りの漱石が住み、その書斎で『吾輩は猫である』を執筆したという奇縁を、鴎外は認識していたが、おそらく漱石は知ることがなかった。

雑司ヶ谷近辺は八雲が好んだ場所で、死の2週間ほど前にもセツと一緒に歩いた。
これが夫婦の最後の散歩になったという。

漱石の法名「文献院古道漱石居士」と、鏡子の法名「圓明院清操浄鏡大姉」が並記されている。
葬儀のあと、漱石の遺骸はすぐに落合の火葬場に運ばれ、12年前、八雲を焼いたのと同じ場所で荼毘に付され、同じ雑司ヶ谷霊園に葬られた。
セツも鏡子も未亡人となったのは、まだ30代のときだった。
セツは八雲没後の28年を、華道や茶道、謡曲などの趣味に没頭しながら暮らし、昭和7年(1932)2月18日、64歳で没した。晩年のセツは、西大久保の自宅を間仕切りして2軒とし、自分は八雲の書斎の側に暮らし、東側を戸川秋骨に貸していた。戸川は八雲の教え子にして漱石とも交流があり、当時は慶応義塾大学の英文科教授として教壇に立っていた。漱石の次男の伸六も、慶応の予科で戸川の講義を受けたという。漱石は早稲田南町の「漱石山房」に転居する直前の明治40年(1907)9月に、八雲邸にほど近い大久保仲百人町に住んでいた戸川宛てに、近辺に適当な貸家はないか問い合わせをした。部屋数などの具体的なやりとりもしている。話の進展によっては、漱石山房が八雲邸の近所に構えられた可能性もあったわけで、想像するとちょっと面白い。
鏡子は漱石亡きあと47年目となる昭和38年(1963)4月14日、85歳で病没。この間、漱石没後に刊行され爆発的に売れた『漱石全集』の印税を、例の大雑把と気っぷのよさから、後先考えず無駄使いすることもあった。孫のひとり、松岡陽子マックレインが、小さい頃の自分が覚えている祖母の暮らしぶりの一端をこう記している。
冬はお正月過ぎてから湯河原の天野屋旅館で二カ月ほど避寒し、春は京都の都ホテルに泊まって祇園祭を楽しみ、夏は日光中禅寺湖ホテルで避暑、というような豪勢な生活を送っていた。(略)祖母は孫たちをいつも宝塚劇場に連れて行ってくれた。一緒に出かけるときは、家の前までハイヤーが迎えに来た。(略)祖母、叔母たちは歌舞伎などにも行ったのだろうが、幼い孫たちは宝塚くらいだった。(『漱石夫妻 愛のかたち』)
鏡子の中で、漱石という重しがなくなったことで、ちょっとバランスが崩れたところもあったのかもしれない。太平洋戦争中から戦後にかけては、漱石没後30年で版権の期限も切れ、鏡子はかなり切り詰めた生活を強いられたという。かつて「菫程な小さき人に生れたし」の一句を詠んだ泉下の漱石は、そんな妻の姿を見ながら、「おまえはやっぱりオタンチンのパレオロガスの、お大名だよ」などと呟いていただろうか。
八雲とセツ、漱石と鏡子、二組の夫婦は、今も仲良く、雑司ヶ谷霊園に眠っている。
* * *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com
(この連載を通しての主な参考文献)
『漱石全集』全28巻、別巻1(岩波書店、1993~1999年)/夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』(文春文庫、1994年)/夏目伸六『父・夏目漱石』(文春文庫、1991年)/夏目伸六『父・漱石とその周辺』(芳賀書店、1967年)/高浜虚子『回想子規・漱石』(岩波文庫、2002年)/松岡陽子マックレイン『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新書、2007年)/荒正人『増補改訂漱石研究年表』(集英社、1984年)/江藤淳『漱石とその時代』第1部~5部(新潮新書、1970~1999年)/『新潮日本文学アルバム夏目漱石』(新潮社、1983年)/『別冊國文学 夏目漱石事典』(学燈社、1990年)/『夏目漱石の美術世界』(東京新聞、NHKプロモーション、2013年)/出久根達郎『漱石先生とスポーツ』(朝日新聞社、2000年)/江戸東京博物館・東北大学編『文豪・夏目漱石』(朝日新聞社、2007年)/平岡敏夫『「坊つちやん」の世界』(塙新書、1992年)/恒松郁生『漱石 個人主義へ』(雄山閣、2015年)/小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』(恒文社、1976年)/小泉八雲、平井呈一訳『日本瞥見記』上・下(恒文社、1975年)/小泉八雲、平井呈一訳『東の国から・心』(恒文社、1975年)/小泉八雲、平川祐弘編『怪談・奇談』(講談社学術文庫、1990年)/小泉八雲、池田雅之編訳『虫の音楽家』(ちくま文庫、2005年)/『明治文学全集48 小泉八雲集』(筑摩書房、1970年)/小泉時共編『文学アルバム小泉八雲』(恒文社、2000年)/小泉凡監修『小泉八雲、開かれた精神の航跡。』(小泉八雲記念館、2016年)/池田雅之監修『別冊太陽 小泉八雲』(平凡社、2022年)/池田雅之『小泉八雲』(角川ソフィア文庫、2021年)/田部隆次『小泉八雲』(北星社、1980年)/長谷川洋二『八雲の妻』(今井書店、2014年)/関田かをる『小泉八雲と早稲田大学』(恒文社、1999年)/梶谷泰之『へるん先生生活記』(恒文社、1998年)/池野誠『松江の小泉八雲』(山陰中央新報社、1980年)/工藤美代子『神々の国』(集英社、2003年)/工藤美代子『夢の途上』(集英社、1997年)/工藤美代子『聖霊の島』(集英社、1999年)/平川祐弘編『小泉八雲回想と研究』(講談社、1992年)/平川祐弘『世界の中のラフカディオ・ハーン』(河出書房新社、1994年)/熊本大学小泉八雲研究会『ラフカディオ・ハーン再考』(恒文社、1993年)/西川盛雄『ラフカディオ・ハーン』(九州大学出版会、2005年)/西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち』(洛北出版、2024年)/池田雅之『日本の面影』(NHK出版、2016年)/ラフカディオ・ハーン『小泉八雲東大講義録』(KADOKAWA、2019年)/芦原伸『へるん先生の汽車旅行』(集英社インターナショナル、2014年)/嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫、2006年)/河東碧梧桐『子規を語る』(岩波文庫、2002年)/『正岡子規の世界』(松山市立子規記念博物館、1994年)/『子規全集』18巻、19巻(講談社、1979年)/『志賀直哉全集』第8巻(岩波書店、1999年)/『芥川龍之介全集』第4巻(岩波書店、1996年)/瀬沼茂樹『評伝島崎藤村』(筑摩書房、1981年)/矢島裕紀彦『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫、2009年)/矢島裕紀彦『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(NHK生活人新書、2003年)/矢島裕紀彦『文士が愛した町を歩く』(NHK生活人新書、2005年)/矢島裕紀彦『文士の逸品』(文春ネスコ、2001年)











