
三大祭に数えられる「祇園祭」ですが、京都に住んでいる人でも前祭(さきまつり)、後祭(あとまつり)すべての山鉾の名前をすらすらと言える人は稀かもしれません。ましてや、それぞれの山鉾の起こりや由緒、伝承となると、限られた人のみになるのではないでしょうか。
そんな「限られた人」というのは、山鉾の保存や伝承に関わる人たちです。
特に一旦巡行不参加の「休み山」となった曳山(ひきやま)を復活させることは、並大抵の情熱や思いでは成し得ないことです。そのすべてをこの記事で書き切ることはできませんが、「鷹山」完全復活に向けた町衆の取り組みの一端をご紹介させていただきます。
「鷹山」復活までの道のり
後祭に登場する「鷹山」は、祇園祭の山鉾の中でも、ひときわ劇的な歩みをたどってきた存在です。
鷹山は、応仁の乱以前から巡行していたとされる由緒ある曳山です。御神体は、鷹匠、犬飼、樽負(たるおい)の三体で、中納言・在原行平(ありわらの・ゆきひら)が、光孝(こうこう)天皇の御幸で鷹狩りをする場面を表していると伝えられています。
かつては、黒漆塗りの美しい屋根を持つ華やかな山として、都大路を進んでいました。

ところが、文政9年(1826)の巡行で大雨に遭い、懸装品(けそうひん、山鉾の装飾品のこと)を汚損したことをきっかけに、翌年から巡行に加わらなくなります。その後、元治元年(1864)の禁門の変による大火で、町内も大きな被害を受けました。御神体など一部は守られましたが、山として巡行することはそれから長く途絶えます。
それでも、鷹山の記憶は町から消えませんでした。巡行には出なくなっても、町内では御神体を飾る「居祭」が続けられていたのです。
鷹山が導いた出会い
復興への動きが本格的に始まったのは、平成21年(2009)頃のことでした。
きっかけの一つになったのは、三条通にあった自転車店での3人の男の出会いでした。自転車店の主人・八田章(はった・あきら)さんは鷹山への思いが深く、鷹山や在原行平、業平にまつわる創作小説の冊子まで作っていたほどです。その場所で現在の鷹山保存会理事長の西村吉右衛門(にしむら・きちえもん)さんと専務理事の山田純司(やまだ・じゅんじ)さんが偶然にも顔を合わせました。
山田さんは、小さい頃から鷹山の町内に近い地域で育ち、「定年になったら鷹山の復興を成し遂げたい」と考えていました。

一方の西村さんの家は、約470年続く旧家です。江戸時代には、西村家の店の前に鷹山が建っていたといいます。家には鷹山や町内に関わる古文書も伝わっていました。
その西村さん自身も、鷹山復興への特別な思いを持っていました。平成15年(2003)には事業を一旦精算し、別の事業を起こす中で、「自分が今こうして生かされているのは先祖のおかげだ」という気持ちが強くなったそうです。
「その先祖が長く関わってきた鷹山を、もう一度よみがえらせたい」、そうした思いが、復興への一歩を後押ししました。

「そういう思いを持った男が偶然にも3人集まって、『鷹山を復興しようじゃないか』となったんです」と、西村さんは振り返ります。
しかし、いきなり山を復元しようとしたのではありません。最初に立ち上げたのは、「鷹山の歴史と未来を考える会」でした。まずは、鷹山の歴史を学び、町の未来を考える場を作り、講演会やワークショップを重ねながら、少しずつ関心を持つ人を増やしていきました。
その中で大きな力になったのが、若い世代の参加です。まだ本当に復興できるかどうかも分からない段階で、所属していた別の山を辞めてまで活動に加わろうとする人も出てきたといいます。

西村さんは「年寄りばかりでやっていたら、ここまで進まなかったと思います。若い人が入ることで、推進力が一気に増しました」と語ります。
もちろん、思いだけで復興が進んだわけではありません。財団法人の保存会を作るには、町内の合意が必要でした。鷹山の中心である衣棚(ころもたな)町で投票を行なったところ、僅差で創設が決まったといいます。もし反対が少しでも多ければ、復興はその時点で止まっていたかもしれません。
復興には、お金も手間もかかります。かつてのように町内で商売を営む家ばかりではなく、住民構成も変わりました。マンション住まいの人、会社員の人も増え、町内のつながりも昔とは違う様相になっています。その中で合意を得ることは、決して簡単ではありませんでした。
それでも、僅差で前へ進むことが決まったのです。そこから鷹山の復興は、少しずつ現実のものとなっていきます。

復興の流れを後押ししたのは、祇園祭全体の大きな動きも関係していました。平成26年(2014)には、後祭が約半世紀ぶりに復興します。さらに、元治元年(1864)の大火で焼失していた大船鉾(おおふねほこ)が巡行へ復帰しました。すでに復興を成し遂げた山鉾の存在は、鷹山に関わる人々にとって大きな励みとなりました。
「大船鉾という実例があったからこそ、自分たちもできるかもしれないと思えました」と、西村さんは話します。
そして令和4年(2022)、鷹山は196年ぶりに山鉾巡行へ復帰しました。「休み山」が、再び都大路を進んだのです。
ただし、関係者にとって、それはゴールではありませんでした。むしろ、ようやく第一歩を踏み出したという感覚に近いものだったのです。

未だ完全復活はしていない鷹山
令和4年(2022)、196年ぶりに山鉾巡行へ復帰した鷹山。その姿をニュースや現地で見た人は、「鷹山は復活した」と受け止めたかもしれません。
しかし、関係者の実感は違います。
「形としては復活しましたが、未だ完成には程遠い状態です。これからが大変なんですよ」と、西村さんは語ります。
現在の鷹山は、かつての姿をすべて取り戻したわけではありません。屋根、金工品、格天井、漆塗り、車輪、懸装品など、これから新調しなければならないものは数多く残されています。

今後、100年以上使い続けることができるように車輪新調のプロジェクトを進めている。
中でも大きな課題の一つが、金工品です。
山鉾の美しさを支える装飾金具は、見た目の華やかさだけでなく、山全体の格を形づくる重要な要素です。しかし、その制作には高度な技術と長い時間、そして多大な費用が必要になります。現在、京都の企業が専任の職人を育てながら制作に取り組んでいますが、出来上がるまでには数年単位の時間がかかるといいます。
さらに近年は、金の価格が高騰しています。装飾に使う金をどう確保するかも、復興を進める上で避けては通れない課題です。現在は京都市が携帯電話などから回収・抽出したリサイクル金の一部を、鷹山の金工品に活用する取り組みも進んでいるといいます。
西村さんは、こうした裏側の苦労について「なかなか表には出ないこと」と話します。祭りでは、どうしても華やかな巡行や宵山のにぎわいに目が向きます。その一方で、山を一基よみがえらせるために、多くの人が莫大な時間と労力をかけているのは、外からは決して見えないものです。

鷹山の復興には、当初「2億円は必要」だと言われたそうです。それでも、菊水鉾(きくすいぼこ)から矢倉を譲り受けるなど、ほかの鉾町からの支援があったとおっしゃいます。石持ちや車輪といった大きな部材も、もし一からそろえようとすれば莫大な費用と時間がかかります。
たとえお金があったとしても、適した材木を見つけ、乾燥させるだけでも数年かかります。そうした部材を受け継ぐことができたことは、鷹山の復興にとって計り知れない力となったそうです。

最後に
西村さんは、鷹山の面白さを「完成品ではなく、成長を見ること」だと話します。
すでに完成された姿で受け継がれている山鉾には、積み重ねられた歴史の美しさがあります。一方で、昨年見た鷹山と今年見る鷹山は違います。さらに、来年見る鷹山も異なる姿になるでしょう。鷹山には年を経るごとに、復活していく姿を見る楽しみと面白さがあります。
屋根が整い、金工品が加わり、格天井に絵が入り、漆や装飾が施されていく。その過程そのものを見届けられることが、鷹山ならではの魅力でしょう。
クラウドファンディングへの参加や鷹山のちまきの授与を受けることも、復興を応援する一つになります。こうして鷹山の取り組みに参加することで、祇園祭をより深く味わえるのではないでしょうか。
筆者も京都に住んで12年になりますが、特別に思い入れのある山鉾はありませんでした。この取材を通して鷹山が「推しの山」となりました。

「鷹山のちまきには病気を治す功験があり、諸方より所望する人多し」と
江戸時代から大変人気があったという。
協力/公益財団法人 鷹山保存会
●取材・執筆/末原美裕

小学館の編集者を経て、編集プロダクション「京都メディアライン」を主宰。京都在住。日本文化や歴史、京料理、歳時記を主なテーマに執筆。『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)を編集。
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