徳川慶喜墓所。

「楽しみは おのが心にある」

徳川慶喜 大正2年(1913)11月22日没。76歳

江戸幕府最後の将軍として知られる徳川慶喜は、明晰なる頭脳の持ち主であった。水戸藩主・徳川斉昭の第7子として生まれ、数え11歳で一橋家を相続。若い頃から周囲の期待も大きく、激動する時代の収拾役として徳川15代将軍の座に押し上げられた。だが、物事の先が見え過ぎたのかもしれない。大政奉還というとてつもない提案を実行し、それでも戦となると、さっさと手を上げて自ら敗軍の将となり、明治維新後は人生の表舞台を降りてしまう。まだ30そこそこの若さであった。

京の郊外で鳥羽伏見の戦いが勃発したのは、慶応4年(1868)1月3日。旧幕府連合軍が薩長連合軍に敗れ、錦の御旗が相手方に翻ったことで「朝敵」となったことを知った慶喜は、7日に戦線を離れ、わずかな供だけを連れて大坂湾から開陽丸に乗船し、12日に江戸城へ着いた。同行していた侍医の坪井信良によれば、慶喜はこの船中で早くも「恭順」の意志を固めていたという。

その後の慶喜は、江戸・水戸両所の謹慎を経て駿府(現・静岡市)に引きこもり、多彩な趣味道楽に生きた。武家のたしなみとして身につけた弓、能、囲碁、書、和歌などはもちろん、新しもの好きを大いに発揮して、投網、狩猟、刺繍、さらには先端の西洋趣味であるカメラや油絵にも取り組んだ。住まいは、駿府紺屋町の元代官屋敷で、部屋数は12~13。屋敷の南側には、作庭師の小川治兵衛に命じ回遊式の庭園をつくらせたという。駿府はかつて徳川家康が隠居城を構えた場所であるが、そこから大御所として政治、軍事を動かした初代徳川将軍とは、なんと対照的であったことだろう。

趣味のカメラに没頭、着色写真まで手がける

慶喜の趣味は、そのどれもが素人の域を脱していた。生来の器用さに加え、一度何かに取り組むと非常に熱を入れ打ち込んだためであった。かつて一橋家に仕え、明治財界の大物となってからも慶喜の「忠臣」であり続けた渋沢栄一が編纂した『徳川慶喜公伝』にはこう記されている。

《公は幼よりの御気質として、一旦事を始むれば一意之に執着せられ、時には殆ど寝食をも忘れ給ふに至る》

たとえば、弓は1日3時間余り、150本もの矢を射た。晩年こそ100本に減じたが、76歳で亡くなる前の年まで、この日課は変わらなかった。釣りでは道具にも凝り、針だけで1000本以上を所有していた。

日本に自転車が輸入されはじめると、イの一番に買い入れて、家従数人を引き連れて、連日、サイクリングにも没頭した。旧幕時代から慶喜の側近くに仕えた従者たちが交代で記した、出勤簿を兼ねた当番日誌『家扶日記』には、慶喜のサイクリング熱を示すこんな記述が読める。

《御家従四人へ度々自転車供有之(これあり)候ニ付 靴之料三円ずつ下され候事》(明治20年2月の項)

要は、慶喜のお供で毎日のように自転車をこぐ従者たちの靴が傷んでしまうので、3円ずつの特別手当てが供されたというのである。

油絵を描くにあたっては、キャンバスや油絵具の入手がまだ困難な時代にあって、日本の伝統的な画材に自ら工夫して手を加えることで代用した。慶喜は一橋家にいた頃、奥絵師の狩野探淵から日本画を習ったことがあった。慶喜の描いた風景画には、どこかアンリ・ルソーを思わせるような印象があった。19世紀後半、税官吏をつとめながら手すさびに絵筆をとって独特の味わいを醸成したフランス人画家の姿が、慶喜に重なるのである。

囲碁に関しては、こんな逸話がある。ある日、大隈重信が慶喜と対局する機会を得た。腕に覚えのある大隈は「しょせんは将軍の打つ道楽碁。たいしたことはあるまい」と飲んでかかったが、いざ実際に盤をはさんで対峙してみると、慶喜の手強さに舌を巻いたというのである。その棋風は勝敗よりも気品を重んじ、大局の着眼にすぐれていたという。

そんな趣味人の慶喜がもっとも情熱を注いだのは、写真だったろうか。将軍時代には率先して被写体となり数種類の肖像写真を残しているが、隠棲後は自ら撮影する側にまわったのである。『徳川慶喜公伝』には、その凝り性ぶりがこう綴られる。

《写真を研究し給ひては、夜を徹し給ふことも屡(しばしば)にて、忽(たちまち)に上達し給ひ、静岡の風光明媚なる処は、概ね公のレンズに斂(おさ)められたり。人物の撮影をも深く究められ、公の手に作れる写真の同族に頒(わか)たれしものも少からず》

久能山東照宮博物館に残る愛用のカメラは、キャビネサイズの乾板を使用する一般用機種の他、米国コダック社製のパノラマ写真専用機や、ドイツのツァイス社製の立体写真専用機もある。慶喜はこれらのカメラを駆使して、写真表現の多様性を追求した。着色写真まで手がけたのもその一環。着色写真は、風景写真などに淡彩を施したもので、明治期に日本風俗を写し外国人の土産として重宝された「横浜写真」が一般に知られているが、慶喜は自身が撮影した写真に自身の手で着色を行なっていたという。

正史の裏面に隠された言葉を呑み込んで

明治30年(1897)11月、慶喜は静岡での長い隠棲生活を切り上げ東京に戻った。もはや齢60に達していた。はじめ巣鴨に屋敷を構え、のち小石川に移った。

以降の写真は、あまり小細工をきかせることなく、巣鴨や小石川の自邸内や、狩猟を楽しんだ原宿穏田の池田家別邸、あるいは王子飛鳥山や滝野川紅葉寺など市井の情景を、三脚を立ててていねいに撮影した。慶喜の曾孫でプロの写真家として活躍した徳川慶朝は、この東京時代の慶喜の写真を、「究極のスナップ写真。リアリズムの極致」という言葉で評価している。

明治34年(1901)12月に転居した小石川第六天町(現・文京区小日向)の屋敷は、江戸城ばりの表と奥の風習を引き継ぐ広壮な構えで、敷地は3600坪余りもあった。慶喜は生まれた場所である小石川後楽園の旧水戸屋敷が懐かしく、そこに近い場所を選んだのだという。

大正2年(1913)11月、慶喜は風邪をこじらせて肺炎をおこした。体調を崩していたのにもかかわらず、九男・誠の男爵授爵のお礼に参内したのが災いしたらしかった。これ以前、明治31年(1898)3月にはかつての政敵だった明治天皇から初めて宮中に招かれていた。その対面のあと、天皇は伊藤博文に、「伊藤、今日やっといままでの罪ほろぼしができた。なにしろ慶喜が持っていた天下を取ったのだからな。慶喜も今日酒盛りをしながら、『お互い浮世のことで仕方がない』と言って帰った」と洩らしたと伝えられる。その後、明治35年(1902)6月には慶喜自身が公爵を授けられていた。

肺炎をおこしたという父・慶喜の容態を案じ、九男の誠が第六天町の屋敷に駆けつけると、慶喜はいつも居間にしていた12畳の南向きの部屋を病室にして横になっていた。そして、「フネ、フネ」とうわ言を口にした。どうやら薩摩の船のことを言いたいらしかったが、それ以上の意味はわかりようがなかった。11月22日、76歳で逝去。正史の裏面に隠された多くの言葉を呑み込んだままの死だった。

慶喜は生涯に5000首の和歌を詠んだといわれる。が、その多くは自ら焼き捨て、残ったのは1割程度だった。以下はそのうちの3首。

「この世をば しばしの夢と聞きたれど おもへば長き月日なりけり」
「とりわきて いふべきふしはあらねども たゞおもしろくけふもくらしつ」
「楽しみは おのが心にあるものを 月よ花よと何求むらん」

若くして、いわゆる世捨て人にならざるを得なかった才人の、孤独な影がにじんでいるようにも見えるが、そこには、単なる諦観を脱して人生を享受する「自然体の悟り」を感じとることもできる気がする。前半生で表舞台からスッと身を退いた慶喜は、西郷隆盛や大久保利通の如く、劇的な死によって世情を騒がせる運命も持たなかったのである。

葬儀は、東京・上野の寛永寺を会場として行なわれた。かつて慶喜が可愛がった故・新門辰五郎の跡取り一家をはじめとする東京中の町火消しが、揃いの半纏と股引き姿でずらりと並び、旧大名も参列して、上野の山をめぐる長い長い、いつ果てるともない行列が続いた。

(主な参考文献)渋沢栄一『徳川慶喜公伝』(平凡社・東洋文庫)、遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』(朝日文庫)、松浦玲『徳川慶喜 将軍家の明治』(中公新書)、岩下哲典編『江戸無血開城の史料学』(吉川弘文館)

*  *  *

矢島裕紀彦(やじま・ゆきひこ)
1957年、東京都生まれ。早稲田大学政経学部卒。著書に『心を癒す漱石の手紙』『打つ 掛布雅之の野球花伝書』(以上、小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』『ウイスキー粋人列伝』(以上、文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(宝島社)『文士の逸品』(文藝春秋)『文士が愛した町を歩く』『鉄棒する漱石、ハイジャンプの安吾』(以上、NHK生活人新書)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ出版部)『あの人はどこで死んだか』(主婦の友社)ほか多数。漱石没後百年の2016年、サライ.jpで『日めくり漱石』を1年間連載。グランドセイコー広告の掌編小説シリーズ『時のモノ語り』で2018年度朝日広告賞朝日新聞特別賞受賞。https://atelier1328.com

 

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