文/石島健(海外書き人クラブ/ロシア連邦モスクワ市在住ライター)

「どうも、陰に日本人がいるらしい」

文久2年(1862年)、ロシア帝国の首都・ペテルブルグにあった幕府使節団は、ロシア側の接待があまりに日本の習俗に忠実なのを奇妙に感じた。宿泊した室内に刀掛け、ベッドに日本風の木の枕、風呂には糠袋、箸や茶碗も日本風のものが用意され、食事も和風の味付けが工夫されていたと、団員の一人だった福沢諭吉は回想している。噂によれば、露名ヤマトフを名乗る日本人が一人、ロシアにいるらしい。しかしついに、使節団の前に姿を現さなかった。

このヤマトフなる日本人が、密航者・橘耕斎(たちばな こうさい)である。

耕斎の前半生は判然としない。文政3年(1820年)生まれで、元掛川藩士だったのは確からしい。初名も立花久米蔵、増田粂蔵、増田久米左衛門など複数伝わる。武術や砲術に通じたらしいが、何らかの理由で脱藩、流浪していたようだ。同時代人の回想や明治期の新聞記事に様々な話が残るが、耕斎が周囲に出鱈目を語っていたのか、新聞が風聞に面白おかしく脚色を加えたか、確かな記録が無い。博打や女郎買いで身を持ち崩したとも、痴情のもつれによる婦人殺しとも、或いは単に豪放な性分ゆえに脱藩したともいう。いずれにせよ、ひと癖ある人物だったのは間違いなかろう。

流転の末、耕斎は伊豆半島の戸田村にある蓮華寺に寄寓していた。その戸田村沿岸で安政元年(1854年)、プチャーチンら使節を乗せたロシア船が沈没。ロシア人らは戸田に居住しつつ、新船の建造を行うことになった。耕斎はこの時、居留するロシア人らとコンタクトしたと思われる。一説には、ロシア人の頼みに応えて密かに日本の書物や禁制品の地図を渡したが、これが露見しそうになり、ロシア側に保護を求めたともいう。結局、耕斎は荷物の箱に詰め込まれ、ロシア人乗組員とともに乗船して日本を離れた。実際、ロシア人引き揚げの直前に蓮華寺の弟子・順知なる男が失踪し、この者が「戸田村滞在魯西亜人共と相交書翰往復等致し」ていた旨、代官所からの報告に残っている。この順知が、耕斎のことであろう。

ロシアで撮影されたと思われる、橘耕斎の肖像写真

1856年にペテルブルグに到着した耕斎は、ロシア帝国外務省に登録され、通訳官として勤務した。1857年、遣日使節の一員だったヨシフ・ゴシケヴィチが和露辞書「和魯通言比考(わろつうげんひこう)」を出版するが、耕斎は協力者としてゴシケヴィチと並んで表記されている。1万8千語収録の立派な辞書で、出版の翌年には帝室アカデミーから表彰され、ヨーロッパの日本研究者からも称賛された。耕斎の生涯で、最も輝かしい功績であろう。

和魯通言比考。橘耕斎という表記がある

1858年1月、耕斎はロシア正教会の洗礼を受け、ヴラジーミル・ヨシフォヴィチ・ヤマトフというロシア名を与えられた。ヴラジーミルは一般的な男性名、姓のヤマトフは日本国を現す大和から、ヨシフォヴィチは父称で、ゴシケヴィチにちなむ。またこの頃、ロシア女性と結婚して男児2人をもうけたというが、詳しいことは分からない。

耕斎の通訳官としての働きについては、ほとんど明らかになっていない。しかし1863年、日本におけるキリスト教について報告書を作成している。この報告書は、日本におけるキリスト教の禁令や、島原の乱などについて詳述したものである。内容は正確性に欠けるが、依拠すべき文献も無い状態では、致し方ないだろう。興味深いのは、由井正雪(ゆい しょうせつ)の乱にもキリスト教との関連をにおわせるなど、当時からそのような風説があったことを示していることである。

耕斎の知識が買われたのは、冒頭のような、日本からの使節を歓待する場面である。文久2年(1862年)の使節の前にはついに現れなかった耕斎だが、慶應2年(1866年)と明治6年(1873年)の使節に対しては、表立って世話をしている。この間には幕府が派遣したロシア留学生とも会っているので、本国の事情が変わったと判断したのだろうか。明治6年の使節団は岩倉具視を長として西欧諸国を歴訪したもので、これがペテルブルグを訪れた際、使節団から帰国をすすめられたらしい。翌明治7年9月、54歳の耕斎は19年振りに日本に帰国を果たした。

帰国後の耕斎は芝増上寺の境内に庵を結び、そこで念仏三昧の日々を送ったと伝えられる。ロシア留学生だった市川文吉と交流が続いたという話もある。市川は幕府留学生の中でも最長の8年をロシアで過ごし、後年は亡命ロシア人に盛んに金品を恵んだというほど、ロシアに思い入れの深かった人物である。耕斎とは、いかなる話をしたのだろうか。

19世紀末のペテルブルグ

もう一つ、意外なところに帰国後の耕斎の消息が伝えられている。ロシアの革命家で冒険家のレフ・メーチニコフは明治7年から約2年間、東京外国語学校魯語科(露語科)で教師を務めた。この経験を手記「日本における2年間の勤務の思い出」(邦訳『回想の明治維新』)に残している。メーチニコフは当時の(当時から、というべきか)日本人が白人の女性に強い憧れを持っていたと記述するが、その中で、「橘耕斎などは、いまだにかのネフスキー通りの娼婦のことを想い出しては、どうにもならない溜息をついている」(「回想の明治維新」 岩波文庫 渡辺雅司訳より)と書いている。念仏三昧のわりには生臭い話だが、面白いエピソードである。

明治18年(1885年)、耕斎は65歳で没した。流転を繰り返した数奇な生涯であった。経を唱えながら、安らかに息を引き取ったと伝えられる。

文/石島健(モスクワ在住ライター)翻訳家・ライター 1985年モスクワ生まれ。モスクワ在住。産業、報道、文化事業を中心に幅広く翻訳を行う他、専門用語の辞書の編纂にも参加。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/

 

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