人は誰かのために生き、支え合って命を繋ぐ
康太さんは、震災後のマネジメントの手腕が認められ、2011年10月に本社に異動になる。
「そのことを伝えると、多くの社員が泣いてくれたんです。僕は震災の翌日に社員の実家のドラッグストアで店員の手伝いをしたのですが、彼の両親がそのお礼にと僕の給料では買えないウイスキーを贈ってくれました」
震災当日、商業施設は停電でレジが使えなかった。そこで康太さんは社員を率いてドラッグストアに行き、客の整理や品出し、現金精算を手伝っていたという。地元の人に必要なものを届け、復興の一助になりたいという一心だった。
「震災を経験し、人は誰かのために生き、支え合って命を繋いでいると強く感じました。よく“利他の心”というけれど、極限状態に近くなれば、利他的になるんですよ。10月に東京に戻って配属されたのは、街のコミュニティ作りや、単身者のためのシェアハウス事業のプロジェクトマネージャーでした。いろんな人に会い、事業は成功し、会社員人生の最後10年間は、本当に充実していました」
65歳まで雇用延長する話もあったが、妻の両親の介護のために、退職する。
「僕の父は震災の翌年に78歳で亡くなりました。眠っている間に心停止したのです。第一発見者の母は、ショックで入院し半年後に息を引き取りました。親孝行らしいことを一切していなかったので、せめて妻の親の役に立とうと思ったのです」
それと同時に、定年後に災害に備えるためのボランティア活動を行っている。
「東日本大震災のときに、同僚の社員が被災した人の家の中でブルーシートのテントを設営し、一斗缶で焚き火台を作るという手腕に感動した。彼のようになりたいと思い、現役時代からキャンプサークルに顔を出していたんです。その延長で、『ブッシュクラフト』という、“自然と一体化する生活スタイル”に出合いました。熟練者になると、ナイフと火打石だけで山に行き、タープだけで夜を明かしたりするんです」
康太さんは熟達を目指して、サークルに入り野営の腕を磨いているという。
「自分の生きる力を拡大するような感覚に喜びを感じるのは、東日本大震災を経験したからだと思います。この活動で出会った人の縁で、森林保全のボランティアに参加したり、子供や親世代に向けた、災害時の生活を乗り切るテクニックを教える活動もしています」
被災して数日間は、乾いたものや冷たいものしか口にできない。生野菜や温かいものが食べられなくなり、体調が揺らぐ。それを阻止するための食生活などを教えているという。
「例えば、乾物の切り干し大根とツナ缶を混ぜてビニール袋に入れ、腹巻きに入れて人肌に温めてから食べるとかね。東京は一斗缶で焚き火はできないだろうから、キャンプ用のバーナーを備えることの大切さ、半壊した家で、ブルーシートのテントの張り方、暖の取り方を教えています」
家族のありがたみ、命の尊さ、そして、震災前の康太さんが考えていた「いつ死んでもいい」は傲慢そのものだったことも伝えている。環境はどう変わっても、人は生きようとする。そのための基礎体力づくりのヒントを、今後も伝えていく。これがライフワークになっているという。
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。
