母もDVの被害者だった
その後さまざまな仕事をして、ポスティングとカウンターレディのバイトだけ続いたという。お店のお客さんだった男性と23歳で授かり婚をするも、38歳のときに離婚に。
「夜のお店は小さなところでそこのママ(雇い主)がいい人だったので唯一続いたんです。夫はそのお店で出会った男性です。ママには内緒で付き合っていて子どもができたことで結婚となったのですが、ずっと黙っていたことでその後が気まずくなってしまって、やめ方はあまりよくありませんでした……。
結婚してからは夫が専業主婦希望の人だったこともあり、婚姻関係にあった15年間ずっと働いていませんでした。だから、夫が浮気をして離婚となったときにもすぐに働くことができなくて、慰謝料と養育費だけではすぐに生活できなくなってしまったんです」
最初に頼ったのが兄のところ。兄は香織さんに「実家に戻れ」と告げ、そこで父が帰って来なくなった理由を話してきたという。当時、母親も父親から暴力を受けていたと。
「私が父から暴力を受けていた時期は、助けてくれない母親との会話もなくなっていたので、母親も手をあげられていたことなんてまったく知りませんでした。父は服などで見えなくなる部分を狙い、物を使って叩いてきたり、物をぶつけてきていました。それに、父はいつも暴力を振るうわけではなく、私の態度が気に入らなかったときだけでした。だから少しの我慢だと、周囲に助けてと言うよりも家庭の恥だから黙っているしかないと思い込んでいました。当時はDVという言葉もまだ浸透していなかったし」
母は、父と同居を再開した当初から離婚の準備を始めていた。
「母は父と再び同居することを拒否していたようです。それなのに子どものためと押し切られた。当時、母は専業主婦だったから。暴力の証拠を集めたり、離婚できるように弁護士や知り合いを頼ったり、子どもを引き取るために仕事を見つけたり、私たちが知らない間に色々していたみたいです。
離婚時に実家の名義は父親から母親に変更になっていたんですが、それはいつでも帰ってこれる場所を子どもに残したいという母親の思いからでした」
その後に兄が母親に連絡をして、現在香織さんは母親に助けてもらいながら一緒に暮らしている。
子どもは虐待を受け、母親はDV被害者だった。同じ家庭内でこのように複数の被害者がいることは多いという。そのことを知った香織さんは、母親を責める気持ちも憎しみもないそう。しかし、毎日虐待を受けていたなら、同じことは言えなかっただろう。香織さん家族は結果論としてうまくいったが、当時の香織さんはあのときに助けてほしかったはずだ。この事実は忘れてはいけない。
取材・文/ふじのあやこ
情報誌・スポーツ誌の出版社2社を経て、フリーのライター・編集者・ウェブデザイナーとなる。趣味はスポーツ観戦で、野球、アイスホッケー観戦などで全国を行脚している。